• 地震, 日本 2011/06/16 3 Comments

    長いトンネルだったが、前方が明るくなってきた

    最後の東北の夜も明け、泥だらけの軽ワゴンは帰路についた。見慣れた東京の街が見えてきた。でも、何か違っていた。現実感が薄い。そう、何かに似ている。長期の海外の旅から帰ったときのようだった。目の前が現実なのか昨日までいた世界が現実なのか。

    ジェットラグで時間感覚がずれるように現実感もずれる。特にミャンマーやインドの山奥にしばらくいて日本に帰るとそのずれは大きかった。今回の東北から帰ってきたときのずれはそれに近かった、いやそれ以上だった。

    津波が残したあの圧倒的な光景、途方に暮れながらも静かに強く生きる人たち。こんなところは世界中で東北しかない。それに、たった3日間だがこれほど深い印象を残したのは、ボランティアに参加できたからだろう。それがなければ全く違った東北になっていたに違いない。

    なんだかこの東北シリーズ、旅行記みたいになってきた。そう、私にとってはたしかに旅だった。それも、今までの旅の中でとびきりの旅だった。

    今回の東北行きでは、物資を持って行くのに貴重な情報だった「ふんばろう東日本」、現地で貴重で楽しい経験ができたのは「小さな避難所と集落をまわるボランティア」の H さん、M さん、T さんのおかげだった。それに被災地で出会った多くの人たち、感謝である。最後に、今回の東北行きの直接のきっかけでもあり、ずっと運転手役もやってもらった K さん、ありがとうございました。

    車は都内を進んでいった。本当にちょっと前の東京とは違っていた。そういや前より暗いな。そうか、省電力、原発事故か。

  • 地震, 日本 2011/06/15 2 Comments

    うみねこの声ばかり響いていた

    東北3日目、掛布団40枚ばかりと服と雑貨を積んだ軽ワゴンは出発した。昨日の続きということで、岩手県境を越えた。

    海岸沿いの道をゆっくり走っていると突然外からエレキの音が聞こえてきた。それもテケテケのベンチャーズサウンドだ。左前方の小さなホテルが音源だった。ホテルの前でおっさんたちがベンチャーズサウンドのライブをやっている。道路を挟んで右側の海岸は津波の悲惨な姿、左側では軽快なベンチャーズサウンド、あまりのシュールな光景に車を止めた。聞くと、5,60代の彼らも近くに住む被災者だった。元気づけのため、ホテルから頼まれて演奏しているという。観客は我々以外にいなかったが、エレキの音は下の集落まで響いていた。

    そのエレキが響く集落へと下りていった。外で何人かのおばあちゃんが掃除をしている。「布団いりませんか?」と声をかけると、布団が津波で持って行かれて困っていたとの返事。うれしかった。ただでももらってくれるのはうれしい。ではと、今度は服が入った段ボールをいくつか車から降ろした。寅さんになったような気分だ。おばあちゃんたちが集まってきた。「これあんたにぴったりだ」とか、「ハイカラすぎないかのう」と、急に華やいだ雰囲気になってきた。おじいちゃんも一人いたが、なかなか仲間に入れない。やっぱり男は孤独なのか。

    ちょっと元気が出てきた。次の集落に向かう。次に布団のもらい手になってくれたのはお母さんたちだ。さっきのおばあさんたちと同じく自宅避難している人たちで、一階が津波にやられて布団が流されてしまったという。布団先輩の言っていた「匂い」というのが分かってきた。避難所には布団など物資がたくさん届いているが、個人避難している人には何も届かないのだ。おばあちゃんたちが「ハイカラすぎる」といって残した服もこちらでは役にたった。またまた衣料露天を開くことになった。

    そろそろ店じまいの時間が迫ってきたが。まだ布団は30枚近く残っている。売れ残った服や雑貨もある。最後はダメ元で、お母さんたちから聞いた避難所に向かった。それまでいくつかの避難所を回ったがみんな余るほど物資があり、我々は役に立てなかった。ということで、最後の避難所もほとんど期待していなかった。

    「えーー-、本当に布団を持ってきてくれたんだ!」
    「盆と正月が一緒に来たみたいだ!」
    なんと、大喜びされたてしまった。ここの避難所は40名ばかりいるが、布団が全くなくて困っていた。布団の代わりに毛布を何枚も掛けて寝たり、座布団を布団代わりにしていた。地震から3ヶ月近く経つのにこんな避難所があったとは。残っていた布団を全部下ろす。服や雑貨の段ボールを見せると、こちらも大喜び。結局全部引き取ってもらえた。こちらも大満足。おちこぼれセールスマンの我々だったが、最後に幸運が待っていた。コーヒーをいただき、しばし歓談したが時間があまりない。心残りではあったが、この避難所を後にした。

    援助物資があまり届いてなかった避難所

    仙台にはまだ明るいうちに着いた。今回のもうひとつの目的がS さんと会うことだった。S さんは1980年代に仕事でヤンゴンに滞在していた。典型的なビルキチの一人、いや最強のビルキチかもしれない。「ビ」とか「ミ」の音を聞いたり文字を見ただけで反応してしまう人だ。場を明るくする才能に長けているし、人の面倒見も非常にいい。そんなS さんとは地震の後何日か連絡がつかず非常に心配したが、無事であった。その夜は、東北大学に留学しているミャンマー人二名とも一緒に食事をすることになっていた。

    留学生は男性一人に女性一人。大学院に通っている穏やかで明るい人たちだ。さすがに地震は怖かったらしい。地震後は山形や埼玉の友人宅にしばらく避難していたという。地震や原発事故のため国に帰った留学生も多いが、彼らは日本に残った。

    S さんと留学生たちでビルマ話が盛り上がり東北最後の夜は終わった。

  • 地震, 日本 2011/06/14 1 Comment

    翌朝、栗原市に向かった。ここを拠点に活動している「小さな避難所と集落をまわるボランティア」の手伝いをするためだ。ネットで偶然見つけたのだが、実際に何をするかは行ってみないと分からない。ただ、「小さな避難所と集落」という言葉に惹かれた。

    3時間後、我々の車は布団セールス部隊の車に変わった。布団が必要なところを探して配って回るのだ。もちろん布団は無料だ。60枚ともなれば掛布団だけでもかなり量があるし重い。軽のワゴンにぎゅうぎゅう積めになった。その他に多少の服や雑貨類を詰め込む。まず向かったのは唐桑半島の付け根あたりにある集落だ。ここも海に近い場所は壊滅状態だが、集落の奥の方は津波を逃れた家があった。その一軒に布団を届けた。そこの奥さん、日本語がたどたどしい。何と中国の黒竜江省から嫁に来た人だった。地震のときはたまたま中国にいて、地震後に戻ってきたらしい。この集落には他に中国人妻が二名いるという。こんなときじゃなければ黒竜江省のことをいろいろと聞きたいがそういうわけにもいかない。

    全壊を免れた家

    この集落までは、ボランティア先輩組の車と一緒に回っていろいろと教えてもらった。次からは友人と私の二人で回らないといけない。どこに行けばいい?「匂いを嗅げ」との先輩の一言だった。ということで、匂いは分からなかったがとにかく北へ向かった。

    海岸沿いを走ると小さな集落が見えてくる。匂うぞ!と勇んで避難所に行っても「物資はもういっぱいなんです」と、なかなか難しかった。先輩組と分かれた後はなかなか布団は捌けなかったが、時間だけは過ぎていった。やはりそんなに甘いもんじゃない。夕方が近づいてきた。そろそろ店じまいをしなければいけない。今日の宿泊地に向かった。

    走っても走っても津波の跡が続く

    海岸沿いを走る気仙沼線はいたるところで分断されている

    そこは被災者宅だった。このボランティアをやっている方が支援活動の中で親しくなった方の家だ。我々は全然面識がなかったが、ずうずうしくもおじゃますることになった。

    すでに7人が集まっていた。電気がない部屋の中でLEDランプが青白く光り、テーブルの真ん中には大きな鍋、仏壇に犠牲になった娘さんの写真があった。津波がなければ出会わなかった人たちだが、7人は同士のように見えた。我々はほとんど聞き役だったが、静かで深くて楽しい夜だった。

  • 地震, 日本 2011/06/13 2 Comments

    ちょっと前に東北へ行ってきた。
    友人が運転する軽のワゴンに被災地に届ける荷物を詰め込んで出発した。これらの物資を購入するのに、ヤンゴンに住むミャンマー人や、在日ミャンマー人からの寄附があった。ミャンマーでは3年前にサイクロン、ナルギスによって14万人ばかりの犠牲者が出た。そのときに日本からもたくさんの援助が届いたということで、私のミャンマー人の友人もヤンゴンから送ってくれた。ナルギスのことはよく憶えているが、それから3年後、まさか日本でこんな大きな災害が起きるとはあのとき夢にも思ってなかった。

    購入した物資

    荷物を送る場所は「ふんばろう東日本」で見て選んだ。ふんばろう東日本は、支援物資を求める避難所や個人がふんばろう東日本のホームページに書き込む。それを見た人がアマゾンなどで購入して届け先を被災者にするいう、被災者と支援者を直接結ぶというネットを活用したシステムだ。

    まず石巻市内を通り、牡鹿半島の蛤浜に向かう。石巻の沿岸部に近づくと津波が破壊した跡が見えてきた。写真やPCのモニタでは何度も見ていても、実際に目の前で見ると圧倒される。言葉では言い表せない。

    雄鹿半島の蛤浜という全9戸の小さな浜に着いた。4戸が津波で全壊し、一軒の家が避難所がわりになっている。被災後しばらくは自衛隊以外の支援の手がほとんどなかったが、ふんばろう東北のようなネットを最近利用するようになってかなりの物資が届くようになったらしい。大きな避難所には援助物資が置き場所がないほど届いているが、小さな避難所や個人避難には困っているところが多いようだ。全壊した家や流された車はほとんどそのまま手つかずの状態だ。漁船も流されてしまって先のことを考える余裕もないようだった。でも、子供だけは元気に瓦礫の中を走り回っていた。

    海岸近くは津波が襲ってきた

    次は石巻市の内陸部にある田園地帯に向かった。宮城県の沿岸地帯はどこも津波で壊滅的な状態だったが、内陸部は外から見るとほとんど被害がないように見える(実は違うのだが)。でもこの田園地帯は違った。10軒に1軒くらいの割合で全壊している家があった。地盤のちがいなんだろうか。荷物を届けたのはそんな家のひとつ。家に住めなくなって、使い古した工事現場用プレハブを譲ってもらい、それを庭に移設して生活していた。今回は津波の被害があまりにも大きいので、この家のように内陸部への援助はほとんどないらしい。

    この日の仕事はこれで終わり、寝床になる長沼キャンプ場に向かった。

  • 今回の地震で世界中が日本を心配してくれているが、ミャンマーからも応援が届いた。

    日本ミャンマー合作映画『血の絆』の主演女優、池田美冬(麻生あかり)さんがヤンゴンで仲間と一緒にチャリティーバザーを開いたのだ。1日で日本円にしてなんと50~60万円集まった。日本と比べると1/10以下の物価、給料5,000円が普通の国でこんなに集まるとはすごいことだ。彼女から日本の友人にその様子を書いたメールが届いたので、本人の了承でここに転載します。

    以下、池田美冬さんより、
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    実は地震後、狂ったようにインターネットを見て、映像が流れるのを食い入るように毎日見ているうちに眠れなくなり、食べれなくなり鬱にはいりました。自分でできることを真剣に考えて、何ができるのか何をするべきが考えました。ここでは簡単に募金もできません。
    そこで思いました。芸能人の真似事をしてきて、7年にもなり、今何かしないと絶対に後悔する。そこでもう一人の日本人女性と二人で4月の9日にチャリティーバザーを開催することになりました。

    52区画。ミャンマー人が進んでお店の場所代を寄付として提供してくれました。芸能人崩れの為か、知られているのがいい方に転がったのか、皆すぐに私を信用し、何も言わずに協力してくれます。あさってです。死ぬ気になって成功させます。たとえ日本円で少ない額でも、ミャンマー人が日本人のために進んで寄付してくれる。寄付したかったんだけどどこにしたらいいのか分からなかったから・・。ありがとう。逆に言われました。

    たいした金額にはならないかもしれない。それでもこの貧しい国の人々がほんとに日本のことを心配して、自分のできる額で寄付してくれた。このお金はこの価値は絶対にその額以上のものだと、私は思います。そして今こそ声を大きくして言いたいです。ミャンマー人だって悪いニュースばかりではなく、日本のことを思い、心を痛めて協力しようとする温かい心をもっているのだと。

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    エピソードを少しだけ。
    バザー区画があと1つを残して完売した夜のこと。私の夫の所へ電話が来ました。「何で俺の所に真っ先に連絡して来ないんだ?俺は日本の会社と取引してるんだ!これで日本を支援できるチャンスがあるのに俺が何もしなければ、どんだけ顔がつぶれると思うんだああ、ばかやろ~~。何が何でも場所をとっておけ!」電話は切れました。この電話で完売しました(笑)

    その夜他の男性からの電話「バザーでゲーム(輪投げとか、ダーツとか)をお金をもらって遊ばせて、そのお金を全部寄付しようと思ったのに、ゲームを手伝ってくれる人がどうしても足りません。すみません、すみません。これからお金をかき集めるので寄付として受け取ってもらえませんか?」学校の先生だったそうです。

    ある夫婦。もう数店舗必要なので、思い出してある男性に電話しました。確か奥様お土産やさんしてますよね?もちろん強制ではないのですが、こういう企画があって・・・。旦那様は興味あるのですぐに家内に電話して聞いてみます。すぐに返事が来て、「こういう企画に参加させてもらうことができて、本当にありがとう。間に合ってよかった」と逆に御礼を言われました。

    仲のよい友達。彼女はホテルで働いていますが、それほど裕福ではありません。なので、2日前に電話をしてこういう企画があるのだけれど、是非バザーに遊びに来てね、あと、共通の友達がお店を出すから手伝ってあげてねとメールをしました。するとすぐに電話が来て、「こういう事を聞いて参加しないでいられるわけない! 友達と共同でお金を出すから、場所を確保してね」と言われました。

    このバザー、お店の為の場所代を頂き、それを全て寄付に回します。来てくれたお客さんからは募金をしていただければ、ありがたくいただきます。その場所代。日本円で6000円。けして安くないです。出してくれる人は皆、売って利益を得ようとは思っていません。皆言います。寄付だから。売れなくてもいいんだよ。みんな寄付したかったんだけどどこにしたらいいのか分からなかったからよかった・・・
    私たちも別にPRするつもりはないんです。ただ、ここにいるミャンマー人だってやさしいぞ!!と、自慢はしたいけれど(笑)

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    バザー終わりました。日本円としては少ないですが50万円から60万円は集まりました。皆さん本当に快く寄付してくださいました。お店も全て完売。人もまあまあの賑わいでした。

    ある日本人が場所のみを購入し、そこに孤児院の10人くらいの子供たちが手作りのキーチェンやタオル、ティッシュいれを売っていました。皆孤児院の子供たちと知っていますので、協力して買って行きます。日本円で1万円くらい売り上げがありました。よかったな~と思っていたら。しばらくして子供たちが皆集まってきてこう言いました。サイクロンの時日本人に本当に助けえてもらったから、今度は僕達の番です。材料費も取らずに全て寄付していきました。
    このお金が、心が少しでも日本に届きますように・・

    池田 美冬

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