• 私が住んでいるウーウィザヤ ハウジングの入り口に気になる看板があった。「Since 1956」という看板を掲げた床屋だ。ヤンゴンに来る前に髪を切ってほぼ坊主頭だった私の頭も2ヶ月過ぎてだいぶ伸びてきた。そろそろ切りどき、この床屋のドアを開けた。

    Since 1956 の看板

     おお、1956! 

    変化の激しいヤンゴンでウーウィザヤ ハウジングの一帯だけは時間が止まっているようだと以前書いたが、この床屋は1956年そのものだ。理容師に促され、椅子に座る。足置きの鋳物を見ると「TAKARA」という文字。もしかして、当時の日本製の理容椅子?

    椅子の足置きにはTAKARAという文字

    理容師に聞くと、この床屋は1954年創業で店の姿はその当時のままらしい。彼は質問に答える以外は寡黙で、丁寧にバリカンを動かしていく。20分間の1956年が終わった。

    寡黙な理容師

     代金の1,500チャット(140円)を払おうとすると、オーナー女性が出てきた。彼女のお父さんが30歳のときにこの理容室を始めたという。理容椅子も開店時のものをずっと使い続けている。建物自体は、1954年に出来たそうだ。その当時、ウーウィザヤ ハウジングはほとんど何もない状態で、他のアパートが出来たのは1960~70年代だった。

    創業者の娘さん

     床屋から帰ってTAKARAという理容椅子をネットで調べてみた。大正時代創業で、現在はタカラベルモントという名の会社が販売していた椅子だった。この店にあったのは50型という、1950年に発売を始めた椅子だ。

    日本のタカラという会社から1950年から発売された50型という理容椅子

     以前、ビルマで写真館を開いていた日本人のことを調べたことがある。そのときに分かったのだが、当時のビルマに住んでいた日本人で多かった職業は、写真館と歯医者と理容師だった。1956年のビルマでも、日本の理容椅子は有名だったのだろう。

  • ちょっと遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。

    去年はミャンマーの状況が大きく変わり、私も驚いている。一昨年は選挙だったが、結果は軍政側のUSDPの圧倒的勝利。「これじゃ民主化も形だけ、政府は軍の傀儡で実質的には何も変わらないな」などと思っていた。知り合いの何人かのミャンマー人に聞いても同じだった。

    ところが、去年10月のミッソンダム中止のあたりから急に雲行きが変わってきた。中国による大プロジェクトであったミッソンダムを中止するというのは、日本が普天間基地の国内移設を拒否するようなもんだ。いや、もっと大きなインパクトがあっただろう。その後は、クリントン国務長官の訪緬、NLDの政党再登録、アウンサンスーチーの補選出馬表明、KIAを除く各民族軍との停戦協定といように、怒涛の変化だった。

    在外ミャンマー人の中には、難民資格を返上して帰国する人たちがけっこう出ているそうだ。最初の頃は民主化に懐疑的だった私も、もしかしてこれ本当?と思うようになってきた。しかし、一昨年制定された憲法も選挙制度も軍に有利で形だけの民主主義だったはず。それがなぜ本当に変わってきたのかと考えてしまった。そこで、はたと気がついた。形が重要? そう思ったのは、手元に「体制維新 ー 大阪都」という堺屋太一と橋下徹による本があったからだ。

    そもそも本当の改革は、体制を変えることです。明治維新であれ、戦後改革であれ、あるいはソ連・東欧の社会主義の崩壊であれ、ことごとく体制を変えることが究極の目的であり、新しい時代の出発です。ところが日本では、戦後ずっと同じ体制、もっといえば明治以来ほとんど同じ体制が続いている。


    国でも同じで、長く自民党政権が続いた後、1993年に非自民の細川政権ができました。その後の自民党政権でも、いろいろな政権が生まれ、改革を唱えました。まず人を変えたのですが、一向にうまくいかない。そこで今度は政策を変えようということになり、民主党に政権交代をしました。民主党は「コンクリートから人へ」のキャッチフレーズで政策を変えようとした。けれども、体制を変えようという話はいっこうに出てこない。だから成果が上がらず、また元に戻ろうとしています。

    これはミャンマーに先を越されか。不十分とはいえ、彼の国は軍事政権から民主主義に変わりつつある。形が変われば中身も変わる。これを今、目の当たりにしているのかもしれない。次に形を変えなければいけないのは日本だ。

    いや、その前に自分だな。

  • IT, 日本 2011/09/16 No Comments

    IT教室を10月2日からはじめることになった。名前はi寺子屋、ドメインも iterakoya.net というのを新たにとった。なんだか、iPhoneやiPadなどを真似しているみたい(本当に真似しているのだが)で、ちょっとあれだけど、自分ではけっこう気に入っている。

    http://iterakoya.net

    参加者はミャンマー人はじめ、外国人を主に考えているが、日本人でもOK。まずは、「ITサバイバルコース」ということで、ITのジャングルを生き残る知恵を身につけようという初心者コースをやってみる。何しろ、先生役をやるのは初めてだし、どうなるか分からないがとりあえずはじめてみることにした。

    興味がある方いますか? または知り合いの外国人で勉強したい方がいたらぜひ宣伝してください。場所は広尾にあるJICAの地球ひろばで、初日は10月2日15~17時です。ここのカフェフロンティアでは世界のビールを置いているので、授業が終わったら乾杯になるかもしれない。

    ということで、みささんよろしく。

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  • 地震, 日本 2011/06/16 3 Comments

    長いトンネルだったが、前方が明るくなってきた

    最後の東北の夜も明け、泥だらけの軽ワゴンは帰路についた。見慣れた東京の街が見えてきた。でも、何か違っていた。現実感が薄い。そう、何かに似ている。長期の海外の旅から帰ったときのようだった。目の前が現実なのか昨日までいた世界が現実なのか。

    ジェットラグで時間感覚がずれるように現実感もずれる。特にミャンマーやインドの山奥にしばらくいて日本に帰るとそのずれは大きかった。今回の東北から帰ってきたときのずれはそれに近かった、いやそれ以上だった。

    津波が残したあの圧倒的な光景、途方に暮れながらも静かに強く生きる人たち。こんなところは世界中で東北しかない。それに、たった3日間だがこれほど深い印象を残したのは、ボランティアに参加できたからだろう。それがなければ全く違った東北になっていたに違いない。

    なんだかこの東北シリーズ、旅行記みたいになってきた。そう、私にとってはたしかに旅だった。それも、今までの旅の中でとびきりの旅だった。

    今回の東北行きでは、物資を持って行くのに貴重な情報だった「ふんばろう東日本」、現地で貴重で楽しい経験ができたのは「小さな避難所と集落をまわるボランティア」の H さん、M さん、T さんのおかげだった。それに被災地で出会った多くの人たち、感謝である。最後に、今回の東北行きの直接のきっかけでもあり、ずっと運転手役もやってもらった K さん、ありがとうございました。

    車は都内を進んでいった。本当にちょっと前の東京とは違っていた。そういや前より暗いな。そうか、省電力、原発事故か。

  • 地震, 日本 2011/06/15 2 Comments

    うみねこの声ばかり響いていた

    東北3日目、掛布団40枚ばかりと服と雑貨を積んだ軽ワゴンは出発した。昨日の続きということで、岩手県境を越えた。

    海岸沿いの道をゆっくり走っていると突然外からエレキの音が聞こえてきた。それもテケテケのベンチャーズサウンドだ。左前方の小さなホテルが音源だった。ホテルの前でおっさんたちがベンチャーズサウンドのライブをやっている。道路を挟んで右側の海岸は津波の悲惨な姿、左側では軽快なベンチャーズサウンド、あまりのシュールな光景に車を止めた。聞くと、5,60代の彼らも近くに住む被災者だった。元気づけのため、ホテルから頼まれて演奏しているという。観客は我々以外にいなかったが、エレキの音は下の集落まで響いていた。

    そのエレキが響く集落へと下りていった。外で何人かのおばあちゃんが掃除をしている。「布団いりませんか?」と声をかけると、布団が津波で持って行かれて困っていたとの返事。うれしかった。ただでももらってくれるのはうれしい。ではと、今度は服が入った段ボールをいくつか車から降ろした。寅さんになったような気分だ。おばあちゃんたちが集まってきた。「これあんたにぴったりだ」とか、「ハイカラすぎないかのう」と、急に華やいだ雰囲気になってきた。おじいちゃんも一人いたが、なかなか仲間に入れない。やっぱり男は孤独なのか。

    ちょっと元気が出てきた。次の集落に向かう。次に布団のもらい手になってくれたのはお母さんたちだ。さっきのおばあさんたちと同じく自宅避難している人たちで、一階が津波にやられて布団が流されてしまったという。布団先輩の言っていた「匂い」というのが分かってきた。避難所には布団など物資がたくさん届いているが、個人避難している人には何も届かないのだ。おばあちゃんたちが「ハイカラすぎる」といって残した服もこちらでは役にたった。またまた衣料露天を開くことになった。

    そろそろ店じまいの時間が迫ってきたが。まだ布団は30枚近く残っている。売れ残った服や雑貨もある。最後はダメ元で、お母さんたちから聞いた避難所に向かった。それまでいくつかの避難所を回ったがみんな余るほど物資があり、我々は役に立てなかった。ということで、最後の避難所もほとんど期待していなかった。

    「えーー-、本当に布団を持ってきてくれたんだ!」
    「盆と正月が一緒に来たみたいだ!」
    なんと、大喜びされたてしまった。ここの避難所は40名ばかりいるが、布団が全くなくて困っていた。布団の代わりに毛布を何枚も掛けて寝たり、座布団を布団代わりにしていた。地震から3ヶ月近く経つのにこんな避難所があったとは。残っていた布団を全部下ろす。服や雑貨の段ボールを見せると、こちらも大喜び。結局全部引き取ってもらえた。こちらも大満足。おちこぼれセールスマンの我々だったが、最後に幸運が待っていた。コーヒーをいただき、しばし歓談したが時間があまりない。心残りではあったが、この避難所を後にした。

    援助物資があまり届いてなかった避難所

    仙台にはまだ明るいうちに着いた。今回のもうひとつの目的がS さんと会うことだった。S さんは1980年代に仕事でヤンゴンに滞在していた。典型的なビルキチの一人、いや最強のビルキチかもしれない。「ビ」とか「ミ」の音を聞いたり文字を見ただけで反応してしまう人だ。場を明るくする才能に長けているし、人の面倒見も非常にいい。そんなS さんとは地震の後何日か連絡がつかず非常に心配したが、無事であった。その夜は、東北大学に留学しているミャンマー人二名とも一緒に食事をすることになっていた。

    留学生は男性一人に女性一人。大学院に通っている穏やかで明るい人たちだ。さすがに地震は怖かったらしい。地震後は山形や埼玉の友人宅にしばらく避難していたという。地震や原発事故のため国に帰った留学生も多いが、彼らは日本に残った。

    S さんと留学生たちでビルマ話が盛り上がり東北最後の夜は終わった。

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