• 次の村はすぐ近く、バイクは軽快に走って・・・ あれ? なかなか着かない。ドライバーのタンウィンもちょっと気になったようで、来た道を引き返す。向こうから1台やって来た。どうも、道を間違えてしまったようだ。まあ、気がついてよかった。そこからすぐにサントン村に着いた。この村も人の気配があまりない。子どもたちが遠巻きに顔を覗かせるだけだ。

    あっという間に村は雲の中

    あっという間に村は雲の中

    赤ん坊を背負っている子どもたち

    赤ん坊を背負っている子どもたち

    この村にビルマ語が達者な人が一人いるということで、その家に向かった。ナッサヤーだった。ミャンマーでは、ビルマ族の土着の精霊信仰をナッという。今ではビルマ族だけでなく、他の民族の精霊信仰もナッと総称している。サヤーは先生なので直訳すると「精霊信仰の先生」、祈祷師や霊媒師などのことになる。

    でも、ここのナッサヤーは祈祷師や霊媒師といったおどろおどろしさは全くなかった。おしゃべりでひょうきん者のナッサヤーだ。最初からずっと思いつくまましゃべり続けている。ときどき、竹筒から酒を飲みニカッと笑う。この笑顔がかわいらしい。相手にはお構いなしにずっと早口で話しをしているので、結局何を言っていたのか2ヶ月経った今ではすっかり忘れてしまった。私の記憶力の問題もあるが、たいしたことは話してなかったのだろう。

    愛嬌のあるナッサヤー

    愛嬌のあるナッサヤー

    そうだ、ひとつ思い出した。私がナッサヤーの写真を何枚も撮っていると、
    「だめだね」
    と、ダメ出しを食らってしまった。
    「今のカメラはちっちゃいんだ。そんな大きなカメラはだめだね」
    私のカメラはだめカメラに認定されてしまった。

    忘れようがないこともひとつ、ナッサヤーには秘密があった。だめカメラでこの秘密を撮ったが、ブログにはこの写真は出せない。どうしても知りたい人は直接ナッサヤーに会いに行ってほしい。

    そうだ、もうひとつあった。ナッサヤーのところに若い男の客が来た。青年は我々に遠慮して奥の部屋に引っ込んだが、私も彼の後を追った。ビルマ語を話せる彼は、自分は中国人だと言った。文化大革命のころ、両親が中国から渡ってきたという。文化大革命で中国からミャンマーに逃げてきた人たちは多いらしい。そして、両親はシンディーに住みついた。

    「シンディーという地名は中国語だというのを知ってる?」
    始めて聞く話だった。その頃、シンディーは何もない土地だったが、中国人がたくさん渡ってきて村を作ったという。そうか、シンディーは文化大革命が原因でできた村だったのか。あの怪しい骨董屋のおばあちゃんも、文化大革命の混乱で逃げてきたのかもしれない。

    後で聞いた話だが、シンディーは「興地」と中国語で書く。たしかに興地は中国語でシンディーと発音する。中国から逃げてきた人たちの気構えが感じられる地名だ。カムティーといいシンディーといい、地名には歴史が潜んでいた。

    注)ナガに詳しいD先生からシンディーの名について指摘された。有名な作家、ルドゥ・ウ・フラが1967年3月にナガ丘陵を訪ねた著書「ナガ丘陵瞥見」で、シンディの地名が出てきている。文革の年代を考えると、文革で逃げてきた中国人がシンディを作ったとは考えられない。ということは、もともとあったシンディーという地名に中国人が興地という文字を当て字で付けたというのが正しい解釈のようだ。

    ナガでよく見る竹

    ナガでよく見る竹

    ナガの村は絵になる

    ナガの村は絵になる

  • 9時半、バイクの用意も整った。清岡さん、渡辺さん、ウェミンさん、私と、それぞれ4名がバイクの後ろにまたがり出発した。出発したとたん、小雨が降ってきた。もや(いや、雲の中か)がかかり、前方は薄ぼんやりとしか見えない。それを4台はバオバオ、バオーンと軽快に音を響かせ走って行く。スピードメーターが壊れていて確認できなかったが、時速40Kmは出ているだろう。舗装はしてなかったが、平坦ですべり止めを施している道は、走りやすそうな道だ。つい最近できたらしい。

    行くぜ!

    行くぜ!

    もやの中からたまに対向車が現れる

    もやの中からたまに対向車が現れる

    1時間弱走って、マッチャン村に到着した。バイクなので、あっけないほど近かった。徒歩だと半日から1日くらいはかかっていただろう。

    ここがマッチャン村

    ここがマッチャン村

    おばあちゃん、裸足

    おばあちゃん、裸足

    まず、オヤジ達がいた家を訪問。4人で朝から酒を飲んでいた。日本の酒飲みオヤジと一緒で、ろれつが回らなくなっているオヤジもいた。ただ、ろれつがまわったとしても、言葉が通じないので会話はできなかったが。ナガにはいろんな部族がいて部族が違うと全然言葉も通じない。ガイドはビルマ族なので言葉が通じない。ドライバーに一人ナガの若者がいたが、部族が違うということでやはり通じない。結局、お互いワーワーと自分たちの言葉で言い合っているだけだった。

    酔っぱらい四人衆

    酔っぱらい四人衆

    部屋の中を見ると、テインセイン大統領のポスターが飾られていた。ナガでは村々にテインセイン大統領のポスターやカレンダーが大量に配られたらしい。というのを、ドライバーから聞いた。ビルマ語が読めないナガの人は、テインセイン大統領を新しい映画スターと思っているかもしれない。いや、映画を見たことがないだろうから、ちょっと違うか。

    家の中にテインセイン大統領のポスター

    家の中にテインセイン大統領のポスター。動物の頭蓋骨の上だから一等地?

    こちらは、スーチーさんのポスター。

    こちらは、スーチーさんのポスター。

    男たち4名は酒を飲んでいるだけだったが、家の入り口では娘(だと思う)が一人黙々と米の脱穀をやっていた。昔ながらの杵と臼での作業だ。

    杵と臼で米を脱穀する

    杵と臼で米を脱穀する

    飲兵衛屋敷を出て外を散策した。子どもたちが遠巻きにしてこちらを見ている。ビルマ語(ミャンマー語)で話しかけるが、全然通じない。この村には学校がないんだろうか。学校があれば多少のビルマ語が通じるのだが。それにしても、子どもたちだけで、大人を見かけない。さっきの家にいたぐらいだ。農作業にでも出かけているのだろうか。雨季の始まる前なので畑仕事が忙しいのかもしれない。

    ナガ独特の家

    ナガ独特の家

    子どもたちが集まってきた

    子どもたちが集まってきた

    ナガの子どもは願力が強い

    ナガの子どもは眼力が強い

    何を思っているのだろう

    何を思っているのだろう。

     言葉が通じないということは、学校がないのか。それに、ここには教会もないようだ。キリスト教が入ってないからオヤジ達も堂々と朝から酒を飲んでいるんだろう。そう、なぜかナガのキリスト教(バプティストが多い)では飲酒を禁止しているのだ。キリスト教が強い村では男たちも酒をあまり飲まない。ビルマ語が通じなくて酒を堂々と飲んでいるということはナガの文化がたくさん残っている村だ。

    鉄を溶かすための、ふいご。村の加治屋だ。

    鉄を溶かすための、ふいご。村の加治屋だ。

    学校も教会もないが、ソーラーパネルがあった。

    学校も教会もないが、ソーラーパネルがあった。

    文化が残っているのはいいが、何も話ができないとあまりやることもない。ということで、次の村に向かうことにした。

     

  • 15時半、ラヘーに到着した。トラックは食堂の横に止まった。シンディから6時間だった。

    ラヘーの食堂と乗ってきたトラック。写真は翌朝。

    ラヘーの食堂と乗ってきたトラック。写真は翌朝。

    ラヘーでは、教員を定年退職したライノン・ナガ族のヤムカさんがバイクの準備やら宿泊の用意やらいろいろとアテンドしてくれていた。ヤムカさんとiPadに入れたナガの地図を見ながら食堂で打ち合わせ。あらかじめ旅行会社のほうで村毎の入域許可はもらっていたのだが、ヤムカさんと話をしているうちにそれ以外の村にも行きたくなった。「まだ外国人が行ったことがない」という言葉に弱いのだ。

    結局、3箇所ばかり追加で許可がもらえるかどうかヤムカさんに依頼することにした。とりあえず、翌日の村めぐりは予定通りの村へ行くことにした。

    ところで、ヤムカさんのことをライノン・ナガ族と書いたが、ミャンマー文字だとラインノウンという表記だ。ローマ字表記だと、Lainong, Leinong, Lainaung などがある。耳にはライノーとも聞こえるが、ライノンが一番近いようだ。少数民族の固有名詞をカタカナで書くのは難しい。

    ラヘーで一番賑やかな交差点にある、NLDの事務所と雑貨屋

    ラヘーで一番賑やかな交差点にある、NLDの事務所と雑貨屋

    今日の宿は学校の教室。4月はずっと休みなので教室を宿として使えるのだ。学校に近づくと鼓笛隊の音が聞こえてきた。うん? ナガで鼓笛隊? 中高生くらいの生徒たち17人で演奏しながら行進していた。これは我々の歓迎式? なんてことはない。3日後にミャンマーの有名な僧侶がラヘーに来るので、その歓迎式典のための練習だった。

    学校で練習中の鼓笛隊

    学校で練習中の鼓笛隊

    でも、お坊さんの歓迎式で音楽? ミャンマーの仏教では僧侶が歌舞音曲を楽しむのは禁止されている。水島上等兵は僧侶の姿で竪琴を奏でたが、本来ミャンマーではありえないことだ。それなのに鼓笛隊の演奏はいいのだろうか。

    たぶん、ナガだからいいのだろう。2002年にナガ新年祭でラヘーに来たとき、僧院から大きな音でビルマ語で歌うロック・ミュージックが流れていた。あのキャロル・キングが作曲したロコモーションだ。70年代には、グランド・ファンク・レイルロードが演奏したハードロックバージョンもある。そんなギンギンの歌が僧院から大音量で流れていた。

    ナガではキリスト教か土着の精霊信仰が強い。大きな村や早くから開けていた村には教会があり、キリスト教徒が多い。地域によってはキリスト教も入ってこず、今でも多くの人たちが精霊信仰を信じている。最近は政府が率先してナガの村に僧院を建てて僧侶を送り込んでいるが、まだ仏教徒は非常に少ない。僧院があっても、信者が1, 2家族だけだという村もある。こういう状況だと、歌舞音曲禁止など言っている場合じゃない。教会の賛美歌に対抗するための、ロコモーションと鼓笛隊なんだろう。

    鼓笛隊の音を聞きながら、宿である教室に着いた。そこには木製の簡易ベットが4台並んでいた。毛布2枚を貸してもらって今日のベッドが出来上がりだ。クッションが全然ないので上向きに寝ると痔が痛むがしょうがない。

    宿にあてがわれた学校の教室

    宿にあてがわれた学校の教室

    この学校には50才前後の先生が一人いた。奥さんと子どもをモンユワに残して一人で宿舎に住んでいる。もう一人先生がいたのだが、その先生は任期が終わって帰ったそうだ。人の良さそうな先生、食事から洗濯から掃除から全部一人でやっていた。でも、あと数日後には学校の休みで奥さんの元で過ごすことができるということで、嬉しそうだった。

    ここラヘーでは電気が来るのは夕方から夜の9時頃まで。携帯はCDMAのみ。私が持っているGSMは全く入らない。これで、やっとネットや電話から離れた生活ができる。夜は何もすることがないので9時にはベッドに入った。真っ暗の夜、雨音がしてきたがすぐに寝てしまった。同室のみんなは私のいびきで寝られなかったかもしれないが。

    翌日、6時起床。朝モヤがかかって今にも雨が降りそうな天気だった。4月なのでナガの山でもそれほど寒くはない。日本の4~5月ごろの気温だ。

    トタン屋根になったナガ伝統の家。

    トタン屋根になったナガ伝統の家。

     

    やはり、パゴダもある

    やはり、パゴダもある

    ラヘー一番のめ絵抜き通り。右に行くとシンディ。左の角は僧院。坂の向こうはインド。

    ラヘー一番の目抜き通り。右に行くとシンディ。左の角は僧院。坂の向こうはインド。

    早朝のラヘー。この坂の先がインド国境へと繋がる。

    この坂の先がインド国境へと繋がる。

    今日は2箇所の村めぐり。村にはバイクで行く。2006年にラヘーの南の村、レイシから村めぐりをしたときは10日ほどずっと歩きだった。そのときと比べると、ずいぶんと楽になったもんだ。インド国境までバイクで1日もかからない。いつもの食堂で朝食をとり、出発を待った。

  • 乾季で穏やかに流れているチンドウィン川をボートはほんの数分で渡った。

    ボートはほんの数分でシンデイに着いた

    ボートはほんの数分でシンデイに着いた

    川岸を上がるとすぐに町の中心だ。広場に大型トラックが2~3台集止まっていたので、ラヘーまで乗れるかどうかガイドのウェミンさんが交渉を始めた。2台目のトラックでOK。荷台に乗ると一人20,000チャットで助手席&シート席だと25,000チャットだ。かなり高いが、外国人料金で決まっているようだ。我々はロートル組なので無理をセず前のシート席に座ることにした。9時半の出発まで2時間ほど時間があったので、シンディの町を散策することにした。

    ラヘーに向かうトラック。荷台ではなく運転席のほうでと一人10,000チャット。

    ラヘーに向かうトラック。荷台ではなく運転席のほうでと一人25,000チャット。

    シンディのメインストリート

    シンディのメインストリート

    シンディはカムティーよりもずっと小さな町だった。町のメインストリートもほんの3~4分で終わる。そのメインストリートの終わりに三叉路があり、真ん中に柵で囲まれた町の名前が描かれた碑があった。シンデ・サンピャー・チェーユワと書かれていた。サンピャー・チェーユワ は「モデル村」という意味になる。何のモデルなのか、現地で聞き忘れてしまった。

    三叉路にシンデ モデル村と書かれた碑があった。

    三叉路にシンデ モデル村と書かれた碑があった。

    シンデは、「象が死ぬ」という意味だ。何でこんな縁起の悪い名前を付けたんだ? 伝説でもあるんだろかと、この時は思った。それに、地元の人の発音はシンデではなく、シンディに聞こえる。まあ、細かいことはいいや、ビルマ語によくある文字と発音が違うパターンなんだろうと思った。

    その三叉路を左に曲がってすぐの家に目が止まった。家の縁側のようなところに少年が変な格好をしている。板に両足を通しているのだ。おお、江戸時代にあったような足枷じゃないか! どうも少年が何か悪さをしでかして、その罰として足枷をさせられてしまったようだ。これはナガ族に残っている風習なんだろうか。これも聞き忘れてしまった。この足枷写真はあるが、少年がかわいそうなので公開は控える。代わりに、ナガ族の若いお母さんと少女の写真をどうぞ。

    ナガ族の若いお母さん

    ナガ族の若いお母さんと子どもたち

    こちらは、ナガ族の姉と妹

    こちらは、ナガ族の姉と妹

    シンディでは外国人はまだ珍しいようで、町、いや村を歩いていると子どもたちが近づいてくる。子どもたちと遊んでいると、一人の老婆がどこからか現れた。

    「珍しいものがあるからちょっと来なさい」

    70才以上だと思える腰の曲がったおばあちゃんだったが、言葉も物腰も強引だった。外国人相手のあやしい土産物売りに捕まったようだ。けど、外国人相手にしてはおばあちゃん英語を話さなかったぞ。まあいい、面白そうなのでちょっと寄ってみることにした。

    捕まった場所からほんの30秒ほどでおばあちゃんの店に着いた。店といってもガランとしていてなにもない。壁にはミャンマーや中国のポスターが貼られていた。棚には薄汚れた人形やらプラスチック製のおもちゃやらライターやら薬のケースやらとても売り物には見えない。見る人が見たら価値のあるものなんだろうか。

    ガラクタに見えるけど骨董品?

    ガラクタに見えるけど骨董品?

    おばあちゃんは一人で奥のほうへ入っていった。そして持ってきたのは木彫の人形。よく見るナガ族のもののようだが、ボロボロで今にも崩れそうだ。あまり興味なさそうな顔をしているので、おばあちゃんは今度はナガの帽子を持ってきた。これもボロボロであまりいい物には見えない。最後に、いつの間にか40代だと思える息子も現れた。「息子が病気で・・・」と、おばあちゃん。結局、顔の形の小さな金属ブローチを渡辺さんが買っただけだった。

    ボロボロになったナガ族の木彫の人形

    ボロボロになったナガ族の木彫の人形

    興味深かったのはナガの骨董品ではなく、おばあちゃん自身だ。なぜ中国人のおばあちゃんがこんなところに住んでいるだ? 店の入り口には、「和合喜神」と描かれた札が貼られていた。これは雲南省あたりの家でよく貼られている札と同じものらしい。今、ネットで調べたばかりだ。

    店先に貼られた「和合喜神」の札

    店先に貼られた「和合喜神」の札

    出発の時間がせまってきた。トラックの乗り場へ戻ることにした。9時半、我々は日産ディーゼルのトラックに乗りラヘーへ向かった。

    ラヘー行きのトラックに乗り込んだ

    ラヘー行きのトラックに乗り込んだ

  • ブログの更新がしばらく途切れ、一部の友人たちに「あいつ、くたばったのでは?」と思われていた私ですが、くたばってません。怠けていただけです。 ということで、2ヶ月ぶりのヤンゴンからのブログです。

    南インドの音楽に詳しい日本人の井生明さんが旅行でヤンゴンにやってきた。写真家・ロシア語通訳・南インド音楽専門家という多彩顔を持つ井生さんと一緒に、タミル人の集まりに出かけた。年1回ヤンゴンでタミル語の試験が行われ、その表彰式がこの集まりだった。雲南迎光會館(仰光はヤンゴンの中国名)と漢字で書かれた会館の大ホールにタミル人ばかり(たぶん2,000人以上)集まっていた。

    3年間チェンナイ(マドラス)に住んでいた井生さんはタミル語がペラペラ(私にはそう見える)、その語学力を活かしてヤンゴンの南インドコミュニティーの人たちと仲良くなり、この集まりに誘われたのだ。インドに行ったことはあっても南インドに行ったことがない私は、タミルとインドの違いをあまり知らなかったし意識してなかった。タミル語とヒンディー語は全く違う言語で文化的もかなり隔たりがあるとか、映画も違うとか私も井生さんのおかげでずいぶんと勉強になった。

    ステージの上ではタミルの踊りをやっていた。ずっと中腰でエネルギー消費量が多そうな踊りだが、一つ一つの動きがキマっている。それもそのはず、インドから呼んできたプロのダンサーたちだった。戦後間もない頃はヤンゴンにもプロのタミル舞踊家がいたという。南インドでも踊りの審査員をやっていたくらいの人だ。でも、今ではヤンゴンでプロとしてやっている人はいない。

    タミルの踊り

    南インドからやってきたタミル舞踊のダンサー

    踊りの後は偉い人たちのスピーチが始まる。こういうのは日本でもどこでも同じ、観客は退屈そうだ。みんながあくびをしだした頃、井生さんが恰幅のいいタミル人に急に呼ばれた。なんと、ステージに上がって挨拶してほしいとのことだった。突然のことだったが、井生さんは慌てず(のように見えた)ステージの上に一人立った。ビデオ撮影している人たちを除き、会場は全てタミルの顔ばかりだ。井生さんがタミル語で話しだす。観客はみんなきょとんとしてた。目の前で何が起こっているのかよく理解できなかったようだ。たぶん、ヤンゴンでタミル語を流暢に使う日本人に初めて出会ったのだろう。そのうち事情が飲み込めたようで、嬉しそうな顔に変わってきた。最後は大歓声、タミル人ならみんな知っている有名なタミル映画の中のキメ台詞を井生さんが言ったからだ。

    タミル人の観客の前でのスピーチ

    大勢のタミル人の観客の前でスピーチする井生さん

     その後はタミル語試験の表彰式だった。緊張した子どもたちが次々のステージに上がり、トロフィーと商品をもらっている。こうしたことを地道にやっているから、タミル語を話せる人たちが多いのだろう。井生さん曰く、ヤンゴンで出会ったタミル人は上手下手はあるが、ほとんどタミル語を話せるという。中国語を話せない人が多い華僑と比べると大きな違いだった。

    タミル語試験の表彰式

    子どもたちが次々にステージに上がり、表彰された

    ヤンゴンに住んで10カ月余り、最近マンネリ化を感じていた私だが、タミル人だらけの中に入ってなんだか初めての国に旅に来たような新鮮な気分になった。

    こちらが井生さんのブログ&サイトです。
    北Qえれじー
    まちかど倶楽部
    カルナーティック宣言!

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