Myanmar Photo

少年とガラクタと宝物

2005/03/08 火曜日 - 02:12:53 by 後藤 修身

バガンから船でエーヤーワディ川を遡り、対岸のパコグーの町に渡る。そこから北へバスで約2時間、パカンジーという村がある。ここは、乾燥地帯のミャンマー中央部でも最も乾燥している地域だ。ここには日本のNGO団体、オイスカの農業研修所もある。また、バガン王朝時代、ここにも城があったという。どおりで遺跡がいくつか残っているわけだ。
暑期4月にここを訪れた。聞きしにまさる暑さだった。日中は45度を超す。そよ風は熱風、さわる全てのものが熱い。というわけで、活動時間は自然と早朝になる。この時だけは気温が体温よりも下がる。村へ散歩に出かけた。牛車、山羊の隊列、水瓶を頭に載せた女たち、暑くなる前に働いていた。そんな村で少年二人と出会った。彼らが、こっちこっちと手招きする。ついて行くと、そこには巨木がそそり立っていた。その太い幹はしわだらけだ。大きなしわの奥にはぽっかりと穴があいていた。その穴に手を入れて、何やら取り出す。小さな手から、ビンのフタや何かのポリ袋などのガラクタがはみ出ている。それを私に見せたかったらしく、さも自慢げに差し出した。そう、それは彼らの宝物だった。
同じだった。私も子供の頃、ビー玉やら貝殻やら何かの電子部品やらを集めて隠していた。ガラクタがそのときは輝いていた。いやガラクタではない、それらはいわれのあるれっきとした宝物だった。しかし、その宝物も時間と共に輝きを失い、ただのガラクタへと変わってしまった。それがいつだったか今となっては思い出せない。

外国人

2005/02/13 日曜日 - 01:17:28 by 後藤 修身

チン州南部の中心の町ミンダからチン州最高峰のビクトリア山(標高3,109m)へ登った。途中、エー村という小さな村に宿泊した。ひさしぶりの山歩きでへとへとになって村に着いた。道ばたで休んでいると村の子供たちがやってきた。お姉さんと弟二人なんだろう。小さいほうの弟はお姉さんに背負われていた。5mほど離れたところまでやってくると立ち止まってこちらをじっーーーと見つめている。こっちへおいでと言っても無反応。近寄ろうとすると後ずさりする。そういや、似たことがあった。自分の子供の頃を思い出したのだ。
九州の田舎で育ったので子供の頃外国人を見ることはほとんどなかった。ある日、近所の友達がひそひそと話をしていた。「あっちにアメリカ人がおるぞ」。そう、その頃は白人は全てアメリカ人ということになっていた。友達の指さす方を見るとちょっと先に背の高い男がいた。僕らは物陰に隠れて見ていた。その外国人が歩いていくとその後ろをこっそりとついて行く。そんなことをしばらく続けたのを思い出した。好奇心と怖さが半々だった。この少女も私の子供の頃の気持ちときっと同じなんだろう。
翌日の早朝、ビクトリア山に向けて身支度をしていると、その少女が今度は一人でやってきた。前日よりも私との距離がちょっと近くなっていた。声をかけると、ほんの少し笑った。

菩提樹の下で

2005/02/11 金曜日 - 00:08:36 by 後藤 修身

マンダレー近くのアマラプラにマハーガンダーヨン僧院がある。多い時期は500名以上の僧侶が修行をしている。ウーぺーイン橋のすぐ近くにある僧院だ。そこに英語が達者な30代の僧侶がいる。キラサ師である。ミャンマーでは年若いときに僧侶となる者が多いが、キラサ師のように大学卒業後仏門に入ったというのは珍しい。
ウーペイン橋が見える大きな菩提樹の下で話を聞いた。こりゃ、仏陀と村人の図だと勝手に一人で納得した。彼の夢は一人山にこもり瞑想だけを続けることだという。僧侶として僧院にいても雑事に追われて瞑想だけで過ごすことはできないらしい。眉目秀麗、頭脳明晰な彼は仏教への熱い思いを語っていたが、近寄りがたい雰囲気はない。友人と話をしているような感じだ。それで調子にのり、「好きな人はいなかったの?」とちょっといじわるな質問をした。「大学生のときに愛した人がいたんだ」と、キラサ師。そんな話を聞いて何だかうれしくなった。
キラサ師とこちらの距離は3mばかり、その間を牛がゆっくりと歩いていく。インドっぽいその光景にますます嬉しくなる。アヒルもがあがあ言いながら勝手に通っていく。で、最後は白人のおばちゃん二人がぺちゃくちゃ話しながら、我々の間を通り過ぎた。ありゃ、さすがにちょっと驚いた。これはいいことか悪いことか。キラサ師はただ笑っていた。

暮れゆくゴッテイ鉄橋

2005/01/26 水曜日 - 21:58:21 by 後藤 修身

マンダレーからラショーへ至る鉄道がある。マンダレーから一気にメイミョ(ピンウールィン)まで列車は登る。メイミョを出てチャウメに到着する前に通るのがゴッテイ鉄橋だ。鉄橋としては世界第二の高さを誇り、また100歳以上という長寿も誇る。
1996年にマンダレーからの列車に乗り、初めて訪れて鉄橋の写真を撮った。1998年に同じく列車で通ったときには、撮影禁止だと言われ撮れなかった。3度目は2000年だった。この年はマンダレーと中国国境ムセの間を車で往復した(このときの写真と文章)。いわゆる援奬ルート(ビルマ公路)である。ただ、車道とゴッテイ鉄橋は距離的にかなり離れていて写真を撮るのは不可能であった。途中、脇道に入るとゴッテイ鉄橋の近くまで下りることができるという話を聞いた。それらしき道があったので、近くの僧院で尋ねた。すると、そこの僧侶が「私についてきなさい」とすたすたと歩き始めた。あわててその後を追った。30分ほど下ると、突然目の前が広がりゲートが現れた。そこには銃を持った兵士が立っていた。軍の基地であった。私は入っていいものかどうか躊躇したが、僧侶が近づくと、兵士は手を合わせてうやうやしく頭を下げる。僧侶は二言三言その兵士に告げると、私に入ってこいと言う。銃を持った歩哨の兵士の目を見ると、うなずいていた。いやはや、さすがミャンマーである。お坊さんは絶対的である。中に入ると非番の兵士たちが集まってきた。私が日本から来たと言うと、あっという間に兵士たちに囲まれた。といっても、尋問されたわけではない。みんな外国人と話すのが初めてだから珍しくて集まってきただけだ。兵士といえど、同じ人間である。
基地に着いたのが午後遅かったので、そろそろ日が傾いてきた。そうだ、ゴッテイ鉄橋の写真を撮りに来たんだと、最初の目的を思い出した。でも、ここの基地からは見えそうもない。兵士たちに尋ねると、兵舎の屋根から見えるという。ということで、滑りやすいトタン屋根に登ることになった。おそるおそる屋根の上に立つと、目の前の谷にゴッテイ鉄橋が姿を現した。傾いた太陽は枯れ草に残照を残し、谷は早くも暮れようとしていた。

雨のゴールデンロック

2005/01/17 月曜日 - 07:18:34 by 後藤 修身

1996年の9月だった。ヤンゴンのゲストハウスに泊まっていたら、「チャイティヨのゴールデンロックの写真をパンフレットで使いたいので撮ってきて」との東京からの電話が入ってきた。え〜、雨期にチャイティヨ?そんなの嫌だよ。と言いたいところだったら、ぜひともと所望され受けてしまった。
雨のチャイティヨは寒かった。濡れ鼠になっているところに冷たい風。おまけに参拝客などほとんどいない。乾期のにぎやかさからは想像もできないくらい閑散としたものだ。霧(雲)がたちこめる中、何とかまともな写真をとろうと思ったがこんな悪天候では無理だった。夜になるとライトアップされるというので、それを待つことにした。真っ暗な中、カメラと三脚を抱えて宿からゴールデンロックへ向かう。昼間より天候は悪くなり、冷たいシャワーが体を打つ。階段を上りきると、ゴールデンロックが見えた。昼間とは全く違った。ライトアップされた岩は金色に輝き、その光が雨に反射して光芒に包まれていた。
写真を撮っていて撮影条件が悪いことは往々にしてある。でも、それはチャンスでもある。普通でない写真が撮れるからだ。ただ、こうした写真をいつ撮れるかは誰も知らない。こうして出来上がった雨のゴールデンロックの写真を見ると、風景も出会いであるというのを感じる。

ナガの青年

2004/12/24 金曜日 - 00:00:00 by 後藤 修身

若者がいた。祭りの会場、ラヘーから歩いて2〜3日の村からやってきたという。頭はイノシシの毛と牙で飾られたボウシをかぶり、顔の周りには虎の爪のフェイスリング。この雄々しい姿はキャミュンガン・ナガの正装だ。だが、ファインダーから覗いた彼の表情にはまだ幼さを残していて、雄々しい正装と少々ギャップがあった。この写真を撮った2、3時間後、この青年から声をかけられた。今度はTシャツとジーンズ姿、同じ年代の隣村の友人たちと一緒だった。Tシャツはこの祭りの参加者に対して政府から支給されたものだ。その彼らから記念写真の撮影を頼まれた。どうも、Tシャツ姿の方が彼らにとっては正装らしい。ファインダーを覗くと、たしかにTシャツ姿の方が彼には合っていた。
若者たちは20代前半、流暢ではないがビルマ語をしゃべる。同じ村の男でも、40代以上になるとビルマ語が全然通じない。というのも、80年代に初めて村に学校ができてビルマ語を教わるようになったという。それにしても、こういう格好をすると、ちょっと見は日本の若者と変わらない。驚くほど日本人と顔が似ている。ということは、彼らが私を見てもナガの人間のように見えているかもしれない。そのせいか、何度も記念写真の撮影を頼まれた。カメラを持った欧米人旅行者も何人かいたのだが、顔が似た日本人の方が頼みやすいのだろう。写真というとも、もう一つ話題が。この祭りのときに知り合いの日本人女性Tさんがいた。彼女もこの青年の写真を夢中になって撮っていた。日本に戻ってその写真を見せてもらったら、なんと、Tさんが撮った写真のほうが私が撮った写真よりも何倍もいい表情をしているではないか。ナガ青年の目がキラキラしていたのだ。やはり、人物写真は異性が撮ったほうがいい表情になるようだ。

遠くを見る男(ナガ)

2004/12/19 日曜日 - 01:59:31 by 後藤 修身

インドとの国境地帯には2000m以上の山々が連なっている。この地域のインド側は独立闘争で有名なナガランド州、ミャンマー側はザガイン管区に属するが同じくナガ族の人たちが住んでいる。ナガ族と一言でいっても単一の民族ではない。外部の人間が勝手にナガ族と総称しているだけだ。部族によって言葉も違うし、特にミャンマー側は自分たちがナガ族という帰属意識は薄い。このナガの地は戦後ずっと外国人には閉ざされていた。インド側である程度外国人が入れるようになったのは90年代後半からであるし、ミャンマー側では新年祭に限り2000年から入れるようになった。私が初めてナガの地に立ったのが2001年1月であった。

レイシの祭りの会場は、予行練習が終わったばかりでグランドはがらんとしていた。そこに一人の男が遠くを見て立っていた。かっこよすぎた。彼に限らずナガの男たちは非常に魅力的だ。フェミニストからは糾弾されるかもしれないが、「男」が「男」である。男の私が見てもほれぼれする。男は力が強くなければいけないし、勇気がなければいけない、そして美しくなければいけない。全て私が持ち合わせていないものばかりだ。
その年は写真を撮っただけで、どこの誰だかも分からなかった。翌年、私はまた新年祭に出かけた。この写真を渡すために会場をいろいろと探し彼と再会した。名前はジョロー、インド国境近くのソムラに住むトンクー(タンクール)ナガだ。村を代表して20人ほどのグループで来ていた。彼らと仲良くなり夜は一緒に酒を飲む。そのときにジョローがポツリともらした。「どうしたら自分たちは豊かになれるんだろう」。
私たちは非日常を体験したいがために旅に出る。特に辺境地に行くと、あまりの違いに感激し、そのまま変わらずにいてほしいと願う。だが、それは旅人のわがままだということを自覚しないといけない。そこに住む人たちは、世界を旅することができる「豊かな」国から来た我々を見、同じように豊かになりたいと望んでいるからだ。

川向こうの少女たち

2004/12/16 木曜日 - 03:35:25 by 後藤 修身

ヤンゴン川の船着き場、200〜300人は乗れる大きな渡し船の他に、十数人乗るといっぱいになるような小舟もある。大きな船は向こう岸のダラーの船着き場に着くのだが、小舟に乗ると向こう岸で何本かに分かれている支流へ入っていく。
ある日、その小舟に乗って奥の村まで行った。遅くなったので帰ろうとするとヤンゴンまで戻る舟はもうないという。それではと、村人から聞いた方向を目指して一人でてくてくと歩き出した。だが、すぐに道が分からなくなった。周りは人家もほとんどなく途方に暮れていると、二人連れの少女たちが向こうから歩いてきた。近くの村に帰るところだった。彼女たちに船着き場はどこかと尋ねると、あと30分くらいは歩くと答えた後、二人は相談を始めた。何事かと思っていたら、「私たちが送ってあげる」。
二人は冗談を言い合いながらずんずんと進んでいく。私はおとなしくその後ろをついて行った。その頃私はビルマ語をほとんど話せなかったので、彼女たちとのコミュニケーションもすぐに続かなくなった。それでも、彼女たちは時々後ろの私を振り返り、キャッキャと笑う。何がおかしいのだろう。アホなおじさんだと笑っているのだろうか。それとも、箸が落ちてもおかしい年頃なのか。そんなこんなでダラーの船着き場が見えてきた。ここで彼女たちともお別れとなった。タッダー、タッダー(バイバイ)と言いながら何度も手を振る。しばらく歩いた後振り返ると夕日を浴びた二人が遠くでまだこちらを見ていた。きっと、アホなおじさんだったからまた迷子にならないか心配していたのに違いない。

トンテの少女

2004/12/14 火曜日 - 23:15:16 by 後藤 修身

私のサイトは写真サイトのはずなのに、このブログには写真が全然なくて殺風景だ。それに政治絡みの話が多くて色気がない。ということで、ミャンマーで撮った写真を肴にしたシリーズを始める。まずは、『Myanmar Photo、出会い』ということで、ミャンマーで出会った人たちの写真、となれば、男性諸氏ご期待の美少女たちの写真がメインだ。

ストランドホテル前にある船着き場から茶色い大きなヤンゴン川を渡った先に川向こうの町、ダラーがある。町というよりも村に近い。騒々しいヤンゴンから川ひとつ隔てただけでのどかな田園風景が広がっている。それでも、船着き場にはトラックバスやジープが客待ちしていてにぎやかだ。このダラーから車で1時間ばかり、南へ下っていったところに壺で有名なトンテがある。ここも町というよりはどこにでもあるような村である。ただ、大きな壺があちこちに置かれているのを見て、普通の村とはちょっと違うというのに気がつく。ここで作った壺をすぐ近くを流れるヤンゴン川でミャンマー各地に運んでいくのだ。トンテの中を歩くと、壺を作っている家はいたるところにある。そんな家をおじゃますると、みんな土まみれになって壺を作っている。その中に美しい少女を見つけた。服や腕は土まみれになっていたが、他の人たちとはあきらかに違う(と私の目には見えた)。薄暗い作業場で撮影するのはもったいないので表に出てもらうことにした。ちょっと驚いたような目をしたが、にこやかに応じてくれた。表に出るとうわさを聞きつけて近所から人が集まってきた。にぎやかな撮影会になった。だが、彼女は大勢の前で緊張したのか、表情が硬い。そこで、「テテモウに似てるね」と声をかけた。周りから笑い声とからかいの声がどっと上がった。テテモウとは、ミャンマーで最も人気のある女優で、当時多くのCMに出演していた。私の目から見ると、テテモウより目の前の少女のほうがずっとかわいいのだが。ともかく、座は一気に盛り上がり、少女も照れながらもまんざらでもなさそうだ。
このトンテの少女の写真は一時エーヤーワディのトップページを飾っていた。男どもからは好評だった。驚いたのは、海外からのメール。「彼女はどこに住んでいるのか。ぜひ会いたい」という英語のメールが2通も来たのだ。迷ったが、トンテという地名は正直に教えた。もしかして、今頃は異国の地で妻として住んでいるかもしれない。