2004/12

津波の被害

2004/12/29 水曜日 - 01:03:44 by 後藤 修身

今回のスマトラ沖地震では津波で甚大な被害を周辺諸国に与えているが、ミャンマーからのニュースが非常に少ない。最初に入ってきたのは、最南部、コータウンで10名死亡というニュースで、次に、イラワジデルタで36名死亡のニュースだった。他国は映像とともに刻々と被害状況が入ってきているが、ミャンマーだけは情報不足のままである。最新のニュースだと、ヤンゴンのユニセフ事務所からの報告がある。これによると、「信頼できる情報によると、津波により少なくても90名が死亡した」また、「政府の発表によると、17の沿岸の村が破壊された」とある。実際の被害状況はまだ全然分かっていないようだ。ミャンマーの場合、マスコミは完全に統制されていて、自然災害なども今までほとんど報道されていない。こうした軍政の秘密主義が、今回の津波についての情報不足の大きな原因だろう。それと、実際にどれくらい被害があるのか行政府自体が実情を把握できていないと思う。地方の村へ行くと電話が全くないのは珍しくない。軍があれば軍の衛星電話があるが、なければ全く情報が隔絶されているというのはたくさんある。
今回の津波の影響が最も大きいと思われるのが、タニンダリ管区のメルギー諸島だ。ここは大きな被害のあったプーケットの北に位置していて、多くの島々が点在している。一部を除き、外国人には解放されていない地域だ。小さな島には電話などの連絡手段が全くないと思わる。また、この地域に古くから住むサロン族(モーケン族)は別名、海のジプシーと呼ばれているように、島々を渡りながら生活していく民族だ。最近でこそ定住化が進んでいるといわれているが、政府が把握しているのも一部だと思われる。こういう状況では、被害に遭っても把握するのが難しいのではないか。彼らは今でも海と共に生きている人たちなので、津波の被害が心配だ。

爆弾事件

2004/12/26 日曜日 - 06:51:02 by 後藤 修身

21日にヤンゴン、24日にカレン州のパアンで爆弾事件があった。朝日新聞によると、21日の事件は、「強壮なビルマ学生戦士」(1999年にバンコクでミャンマー大使館占拠事件を起こした)による犯行声明が出ている。24日の事件については、珍しく国営紙の New Light of Myanmar がこの事件を報告している。
ミャンマーは少数民族の独立闘争が長く続いていて、国境地帯では今でも散発的に武力衝突が起きている。だが、国境地帯以外でテロ事件が起きることは非常に少なく(90年代以降)、中国やタイやラオスなどの近隣国と比較しても、治安の点ではより安全な国だった。文化的理由以外には、アウンサンスーチー氏が非暴力を唱えているのが大きな理由だと思われるが、他にもうひとつ理由がある。軍情報局 MI の力である。MI は国民を監視する役割があった。88年以降、MIの監視能力が落ちてきたと聞くが、それでも全国に目を光らせていた。そのMIが10月の政変のため現在は活動停止に近い状況にある。今回の爆弾騒ぎが2件続いたのもこれが影響しているのではないか。
この件に関連して、興味深い記事があった。ビルマ共産党がインタビューに答えた記事である。共産党が「Demo-2006」を計画しているという内容である。それは、2006年に暴動を引き起こそうというものだ。ビルマ共産党は80年代までは中国共産党の支援があり、かなりの勢力があったが、今ではかつての支配地域の大部分をなくし、勢力が大幅に小さくなっている。したがって、この計画が成功するとは思えないが、記事中の一節に目が行った。「軍事情報局が著しく弱められており、組織が再構築されるまでかなり時間がかかる。これは、地下工作するのにまたとない機会だ。」というような内容である。
アウンサン将軍自身が共産主義指向があったということもあり、ミャンマーでは未だに共産主義に対してシンパシーを持っている知識人が多い。NLDの中にも共産主義に傾倒している人物はかなりいるという話を聞いているし、アウンサンスーチーの言動にも若干その傾向が伺える。そういったことを考慮すると、共産党の動きにも注意が必要かもしれない。

ナガの青年

2004/12/24 金曜日 - 00:00:00 by 後藤 修身

若者がいた。祭りの会場、ラヘーから歩いて2〜3日の村からやってきたという。頭はイノシシの毛と牙で飾られたボウシをかぶり、顔の周りには虎の爪のフェイスリング。この雄々しい姿はキャミュンガン・ナガの正装だ。だが、ファインダーから覗いた彼の表情にはまだ幼さを残していて、雄々しい正装と少々ギャップがあった。この写真を撮った2、3時間後、この青年から声をかけられた。今度はTシャツとジーンズ姿、同じ年代の隣村の友人たちと一緒だった。Tシャツはこの祭りの参加者に対して政府から支給されたものだ。その彼らから記念写真の撮影を頼まれた。どうも、Tシャツ姿の方が彼らにとっては正装らしい。ファインダーを覗くと、たしかにTシャツ姿の方が彼には合っていた。
若者たちは20代前半、流暢ではないがビルマ語をしゃべる。同じ村の男でも、40代以上になるとビルマ語が全然通じない。というのも、80年代に初めて村に学校ができてビルマ語を教わるようになったという。それにしても、こういう格好をすると、ちょっと見は日本の若者と変わらない。驚くほど日本人と顔が似ている。ということは、彼らが私を見てもナガの人間のように見えているかもしれない。そのせいか、何度も記念写真の撮影を頼まれた。カメラを持った欧米人旅行者も何人かいたのだが、顔が似た日本人の方が頼みやすいのだろう。写真というとも、もう一つ話題が。この祭りのときに知り合いの日本人女性Tさんがいた。彼女もこの青年の写真を夢中になって撮っていた。日本に戻ってその写真を見せてもらったら、なんと、Tさんが撮った写真のほうが私が撮った写真よりも何倍もいい表情をしているではないか。ナガ青年の目がキラキラしていたのだ。やはり、人物写真は異性が撮ったほうがいい表情になるようだ。

遠くを見る男(ナガ)

2004/12/19 日曜日 - 01:59:31 by 後藤 修身

インドとの国境地帯には2000m以上の山々が連なっている。この地域のインド側は独立闘争で有名なナガランド州、ミャンマー側はザガイン管区に属するが同じくナガ族の人たちが住んでいる。ナガ族と一言でいっても単一の民族ではない。外部の人間が勝手にナガ族と総称しているだけだ。部族によって言葉も違うし、特にミャンマー側は自分たちがナガ族という帰属意識は薄い。このナガの地は戦後ずっと外国人には閉ざされていた。インド側である程度外国人が入れるようになったのは90年代後半からであるし、ミャンマー側では新年祭に限り2000年から入れるようになった。私が初めてナガの地に立ったのが2001年1月であった。

レイシの祭りの会場は、予行練習が終わったばかりでグランドはがらんとしていた。そこに一人の男が遠くを見て立っていた。かっこよすぎた。彼に限らずナガの男たちは非常に魅力的だ。フェミニストからは糾弾されるかもしれないが、「男」が「男」である。男の私が見てもほれぼれする。男は力が強くなければいけないし、勇気がなければいけない、そして美しくなければいけない。全て私が持ち合わせていないものばかりだ。
その年は写真を撮っただけで、どこの誰だかも分からなかった。翌年、私はまた新年祭に出かけた。この写真を渡すために会場をいろいろと探し彼と再会した。名前はジョロー、インド国境近くのソムラに住むトンクー(タンクール)ナガだ。村を代表して20人ほどのグループで来ていた。彼らと仲良くなり夜は一緒に酒を飲む。そのときにジョローがポツリともらした。「どうしたら自分たちは豊かになれるんだろう」。
私たちは非日常を体験したいがために旅に出る。特に辺境地に行くと、あまりの違いに感激し、そのまま変わらずにいてほしいと願う。だが、それは旅人のわがままだということを自覚しないといけない。そこに住む人たちは、世界を旅することができる「豊かな」国から来た我々を見、同じように豊かになりたいと望んでいるからだ。

キンニュン解任の内幕と新聞記事

2004/12/17 金曜日 - 02:53:27 by 後藤 修身

12月15日の毎日新聞の記事に「不正暴露指示“命取り”キンニュン前首相解任の内幕が判明」があった。この記事を読んでみてもらいたい。まず、題名からして飛ばしている。内容も真相暴露の興味深い記事で、普通なら、「おお、すごい、そうだったのか!」で終わるところだ。でも、終わらなかった。というのも、私もこの記事の内容とほぼ同じ内容の話を某所で某氏から聞いていた。あまりにも内容が近いというか、ほとんど同じなので、この毎日新聞の記事のニュースソースと私が聞いた話とは同じ出所であろう。その話は某氏が「ヤンゴンで20名ほどの人から集めた情報を総合的に判断した結果」の推測に基づいた内幕であった。政府筋ともコネクションのある人なのである程度確度の高い情報だが、一次情報ではない。本人も事実だという断言はしていなかった。ところが毎日新聞の記事には、
〜〜との間で土壇場の暗闘が繰り広げられていたことが分かった。軍事政権の内情に詳しい外交筋が毎日新聞に詳細を明らかにした。
というように、さも事実かのような書き方をしいている。こりゃ断定しすぎでしょう。また、この記事の最後のほうで、

同筋は「もし情報が漏れず、18日に前首相が副議長らの不正を議長に暴露していれば、形勢逆転していた可能性があった」と語った。
とある。この話は、「いろんな話を組み合わせて最も面白いストーリーにしただけで、眉唾物ということを前提に聞いてほしい」という某氏の前置きがあった話である。そういうこともあり、私はこの話についてはブログにも書かなかった。でも、新聞記事になってしまった。う〜ん、こんなんでいいんだろうか?

川向こうの少女たち

2004/12/16 木曜日 - 03:35:25 by 後藤 修身

ヤンゴン川の船着き場、200〜300人は乗れる大きな渡し船の他に、十数人乗るといっぱいになるような小舟もある。大きな船は向こう岸のダラーの船着き場に着くのだが、小舟に乗ると向こう岸で何本かに分かれている支流へ入っていく。
ある日、その小舟に乗って奥の村まで行った。遅くなったので帰ろうとするとヤンゴンまで戻る舟はもうないという。それではと、村人から聞いた方向を目指して一人でてくてくと歩き出した。だが、すぐに道が分からなくなった。周りは人家もほとんどなく途方に暮れていると、二人連れの少女たちが向こうから歩いてきた。近くの村に帰るところだった。彼女たちに船着き場はどこかと尋ねると、あと30分くらいは歩くと答えた後、二人は相談を始めた。何事かと思っていたら、「私たちが送ってあげる」。
二人は冗談を言い合いながらずんずんと進んでいく。私はおとなしくその後ろをついて行った。その頃私はビルマ語をほとんど話せなかったので、彼女たちとのコミュニケーションもすぐに続かなくなった。それでも、彼女たちは時々後ろの私を振り返り、キャッキャと笑う。何がおかしいのだろう。アホなおじさんだと笑っているのだろうか。それとも、箸が落ちてもおかしい年頃なのか。そんなこんなでダラーの船着き場が見えてきた。ここで彼女たちともお別れとなった。タッダー、タッダー(バイバイ)と言いながら何度も手を振る。しばらく歩いた後振り返ると夕日を浴びた二人が遠くでまだこちらを見ていた。きっと、アホなおじさんだったからまた迷子にならないか心配していたのに違いない。

トンテの少女

2004/12/14 火曜日 - 23:15:16 by 後藤 修身

私のサイトは写真サイトのはずなのに、このブログには写真が全然なくて殺風景だ。それに政治絡みの話が多くて色気がない。ということで、ミャンマーで撮った写真を肴にしたシリーズを始める。まずは、『Myanmar Photo、出会い』ということで、ミャンマーで出会った人たちの写真、となれば、男性諸氏ご期待の美少女たちの写真がメインだ。

ストランドホテル前にある船着き場から茶色い大きなヤンゴン川を渡った先に川向こうの町、ダラーがある。町というよりも村に近い。騒々しいヤンゴンから川ひとつ隔てただけでのどかな田園風景が広がっている。それでも、船着き場にはトラックバスやジープが客待ちしていてにぎやかだ。このダラーから車で1時間ばかり、南へ下っていったところに壺で有名なトンテがある。ここも町というよりはどこにでもあるような村である。ただ、大きな壺があちこちに置かれているのを見て、普通の村とはちょっと違うというのに気がつく。ここで作った壺をすぐ近くを流れるヤンゴン川でミャンマー各地に運んでいくのだ。トンテの中を歩くと、壺を作っている家はいたるところにある。そんな家をおじゃますると、みんな土まみれになって壺を作っている。その中に美しい少女を見つけた。服や腕は土まみれになっていたが、他の人たちとはあきらかに違う(と私の目には見えた)。薄暗い作業場で撮影するのはもったいないので表に出てもらうことにした。ちょっと驚いたような目をしたが、にこやかに応じてくれた。表に出るとうわさを聞きつけて近所から人が集まってきた。にぎやかな撮影会になった。だが、彼女は大勢の前で緊張したのか、表情が硬い。そこで、「テテモウに似てるね」と声をかけた。周りから笑い声とからかいの声がどっと上がった。テテモウとは、ミャンマーで最も人気のある女優で、当時多くのCMに出演していた。私の目から見ると、テテモウより目の前の少女のほうがずっとかわいいのだが。ともかく、座は一気に盛り上がり、少女も照れながらもまんざらでもなさそうだ。
このトンテの少女の写真は一時エーヤーワディのトップページを飾っていた。男どもからは好評だった。驚いたのは、海外からのメール。「彼女はどこに住んでいるのか。ぜひ会いたい」という英語のメールが2通も来たのだ。迷ったが、トンテという地名は正直に教えた。もしかして、今頃は異国の地で妻として住んでいるかもしれない。

世界仏教サミット、開催

2004/12/13 月曜日 - 07:02:36 by 後藤 修身

昨日の昼、二日酔いでうなっていたら、テレビから「ミャンマー」という声が。見ると、「世界仏教サミット」でマスコミの取材が許可され、ヤンゴンで撮影された映像だった。たしかテレビ朝日の放送であったが、民放のニュースでミャンマーの映像を見るのもひさしぶりであった。また、新聞でも小さな記事であるが取り上げているところがある。でも、今回の開催までの紆余曲折についてはほとんど書かれていない。日経新聞の記事でほんの少しだけ言及されているが、「当初1000人規模の参加を表明していた日本の仏教団体がキン・ニュン前首相解任後に参加中止を決定。」とだけ書かれていて、念仏宗の名前はない。それに、参加中止ではなく主催中止である。相変わらず宗教団体に対しては腰が引けている。

ミャンマーと北朝鮮

2004/12/11 土曜日 - 05:59:27 by 後藤 修身

拉致問題が表沙汰になって以降、日本でもやっと北朝鮮という国の本当の姿を認識するようになってきたが、それよりずっと以前に北朝鮮の恐ろしさを身をもって知ったのがミャンマーだ。
ラングーン爆弾テロ事件(1)
ラングーン爆弾テロ事件(2)
1983年10月9日、韓国大統領一行がラングーン(ヤンゴン)のアウンサン廟を訪れた。ちょうどそのとき爆弾が爆発。韓国政府およびビルマ政府の要人たちが19人死亡した。全斗煥大統領は到着が遅れたために難を逃れた。この事件は世界を驚かせ、犯人についていろんな説が上がったが、2日後の11日、ビルマ政府は朝鮮人の犯人を捕らえたと発表した。犯人のうち1名は銃撃戦で死亡したが、2人を逮捕。11月4日には犯人の国籍が北朝鮮であると発表し、即日、国交断絶した。それも単なる国交断絶ではなく、外交措置として最も厳しい国家の承認取り消しであった。犯人の2人は裁判の被告となり、翌年の2月9日に死刑が確定した。
北朝鮮がテロ国家としての姿を世界に初めて示したのがこの事件であった。だが、北朝鮮の犯行だというのを信じなかった人たちも日本には多かったようだ。当時駐ビルマ大使だった佐久間平喜氏の著書『ビルマに暮らして』によると、
ちなみに、それまでビルマが北朝鮮と密接な関係にあっただけに、なおのことビルマ政府の本事件の調査と裁判は、国際的には公正なものであると受けとめられた。しかし、わが国のいわゆる「進歩的文化人」のなかには、北朝鮮への親近感のためか、ビルマの裁判に疑いの目を向け、北朝鮮犯行説に異を唱える人が多かったのには驚かされた。
と、書かれている。そういえば、この当時私はまだ20代だったが、本当に北朝鮮だろうかと疑ったことをぼんやりとだが覚えている。マスメディアの当時の(今でも?)「進歩的」な報道にだまされていたのかもしれない。
北朝鮮絡みはもうひとつある。『大韓航空機爆破事件』である。大韓航空機が消息を絶ったのがミャンマー沖のアンダマン海だ。爆破してバラバラになった機体がミャンマー領のアンダマン海に眠っているという。それにしても、北朝鮮が起こした国際テロの二つがミャンマーと関わりがあるというのは、何かの因縁があるのだろうか。

「スーチー&マウンエイ仲良し説」(うわさ)

2004/12/07 火曜日 - 16:07:56 by 後藤 修身

ミャンマーでは国内の政治的な動きについてはほとんど報道されない。そのせいか、噂が非常に多い。毎日いくつも政治的なうわさ話が生まれているのではないかと思われるくらいだ。たまには本当の話もあるが、ほとんどはウソである。こうしたうわさ話紹介するのも面白いのだが、「エーヤーワディブログ」が「ウソつきブログ」と呼ばれるのもつらい。ということで今までうわさ話の類はあまり書かないように心がけていたのだが、今日はひとつだけ紹介したい。
Shanland.orgという、シャン族のグループのサイトに、「The riddle of Maung Aye」という記事が出ている。その中にアウンサンスーチー氏関連の部分がある。
We hear: Aung San Suu Kyi has reportedly called Maung Aye the most charismatic of Burma’s top brass. His friendliness toward Suu Kyi when the two last dined together was described as unusual.
—–以下は後藤訳—–
聞いた話だが、
マウンエイは軍の中では最もカリスマ性のある高官だと、アウンサンスーチーが評した。二人が(軍の)晩餐会で会ったとき、マウンエイは彼女に対して異常なほどの親密さを見せていたそうだ。
—–
といった内容である。We hear と文頭にあるから、これは伝聞情報である。しかし誰から聞いたとも書いてないし、噂話とも書かれていない。実は、このスーチーとマウンエイの話はしばらく前からよく噂として聞く話である。この話の真偽を先日ある日本人のミャンマー専門家に聞いたところ、偽情報だと断定されてしまった。それも、誰かが意図的に流した偽情報だろうというのがその専門家の見解であった。
軍政の中ではタンシュエ議長に続くNo.2の地位にあるマウンエイは、今回の政変でキンニュンを追い落とした中心人物だと目されている。また、日本を含めた海外のマスコミでは「強行派」とされている。ただ、軍の中では清廉であるとミャンマー国内では評価されているらしい。一般国民からの人気度を見ると、タンシュエは人気がないがマウンエイは一部では人気があるようだ。ちなみに、キンニュンは国外では評価されていたが、国内では人気がなかった。マウンエイの評価については、上記記事にも書かれている。
ミャンマー国内の政治、社会状況をある程度理解した上で、この「スーチー&マウンエイ仲良し説」を推理してみるのも面白い。また、この話の背景をご存じの方がいましたら、ぜひ教えてください。