ビルマ一カ月の旅ばなし
舟橋左斗子 著
目次
1、「ありがとう」を言わない国
2、どうも解せないこと / ゴールデンロック参拝道中で
3正義のために死ぬ覚悟 / マンダレーの一夜
4世にも美しい男の園 / アマラプラの僧院探検
5大人より大人な子供たち / 古都パガンは今も健在!
6時は金ならず / ミャンマー国内の移動途中

「ありがとう」を言わない国 〜 の一
 「ありがとうはもうやめてくれ。」
 ミャンマー第2の都市マンダレーで数日ばかり私のドライバーとして車を動かしてくれていたティントゥン氏にそう言われたとき、実はすぐにその理由がわかった。何故なら以前、同じような経験をしていたからだ。またやってしまった…そう思いながら私は、助手席から一応問い返した。「どうして?」…
「どうしてって何だか気分が良くないんだよ。あんたは『ありがとう』ばかり言いすぎる。そんなこと言ってもらいたくないんだ。」私は、働き盛りの40代の彼にたいした金額も支払ってないのに、彼がガソリン代はもちろん、食費から土産代に至るまで、全部出してくれていることに申し訳なさを感じていた。
 後部座席に座っていた理論派のチョウチョウが、微笑みながら口をはさんだ。「ありがとうと言われると、せっかくした良いことが帳消しになってしまうような気がするんですよ。いいことをするといい気分でしょう。だけど『ありがとう』と言われると、せっかくした『いいこと』を返されてしまうような気がするんです。何かをあげて、『ありがとう』をもらう。これで差し引きゼロになってしまうんですね。…そう言うことだろ?」
 ティントゥンに同意を求める。ダンディ派のティントゥンは、わかったようなわからないような表情で、前を向いたまま黙ってうなづく。私としては、そこまではっきり言い当てられてしまうと、もうぐうの音もでなかった。何かをしてもらったことによって受ける「借り」を、「ありがとう」と返すことで半減させようとする、ある意味で「ずるい」対応を指摘されて、私はすっかり恥ずかしくなってしまった。
「わかった」…かくして私たち3人の間では、以降、「ありがとう」という言葉を使わない、という取り決めがなされたのである。
 私が最初に「ありがとう」問題にぶつかったのは、スペインでアパートを借りて一ヶ月間住みついた、小さな村の生活の中でのことである。アンダルシアの白い村は、小さな庭(パテイオ)を囲んで数世帯が住む、小さなご近所のある暮しから成り立っていた。昔ながらのそんな白い家に突然1ヶ月だけやってきた私に、パテイオをとり囲むご近所の奥さん達は、色々と便宜をはかってくれた。寒くなってきたと思えば私が言い出す前にストーブを貸してくれたり、たくさん買ったからと、にんにく(スペインでは常備品)を分けてくれたりと、本当に良くしてくださったのだが、私がいちいち「ありがとう」を連発しているのに対しては、特に答えもせずニコニコと笑っていてくれた。
 そんなわけで、今度は私がお返ししなきゃと思い立ち、甘いもの好きな彼女達に、「お菓子を少し多く買っちゃったので」とおすそわけに行ったのである。 ところが彼女達は、うれしそうに受けとりはしたけれど、「ありがとう」という言葉を発しない。そんな彼女達の反応に何だか拍子抜けしてしまってから気がついたのである。「ありがとう」と言われることを期待している自分に…
 そのとき以来、日本で気にもせず使っていた「ありがとう」が、少し長い旅をする度に大きな問題となりつつあった。なぜなら旅人というのは子供にも似て、助けられ、礼を言いたくなる場面が非常に多い生き物なのだから。
「ありがとう」を言わない国 〜 の二
 「ありがとう」が話題になってから、私は「ありがとう」を言うことを禁止された。ティントゥンはタクシードライバーだったわけで、私たちは車で移動を続けており、私は常々、バス移動では発揮できない好奇心を最大限に発揮して、あちこちに車を止めてもらっていた。都市間を移動する田舎道で、この国ではときどき、そのまま額に入れてしまいたいようなすばらしい風景に出会う。日本ではほとんど目にしない赤土の村も、私の好きな風景のひとつだ。粘土のように目の細かな赤茶色の土は乾期の乾いた太陽の下で、時にヤシの木の豪快な緑や農作物のみずみずしい緑と鮮やかなコントラストをなし、常夏の国ならではの美しさを繰り広げる。また乾いた緑色が繁る、コーンの畑の間をぬって、果てしなく続く赤い小道に夕陽が落ちるとき、赤い道を取り巻く風景全体が黄金色に輝いて、その中をかごを頭に乗せたロンジー姿の女性が帰途につくひとこま。それから土煙の中、昂然と現れる水牛の群れ、先頭の牛に堂々とまたがり陣頭指揮を取る少年…。
 私はわがまま勝手に、「ね、ちょっととめて!」と叫んで、車から飛び降りカメラを向けたり、「ちょっと2・3分、いい?」などと言っては赤い村の中に向かって歩き始め、気がつけば村中を歩き回っていたことも1度や2度ではなかった。ある村では、人も牛もヤギも豚もにわとりも、みんな同じように道いっぱいに広がってうろうろ、とろとろ歩いており、めったに通らない自動車の方がその速度に合わせながらソロソロ歩む、といった具合で、そんなときはもう私の天下だった。ことあるごとに、「ごめん、ちょっと待ってね〜」などと言いながら車を飛び出す私を、ティントゥンはいつも、いたずらなちびっこを連れたお父さんのように大人な態度で待っていてくれた。
 ところがその日まで、そうやって待たせたティントゥンに、「どうもありがとうね!」とひとこと声をかけて助手席に戻っていた私が、「ありがとう」を禁止されたのである。しばらくはつい口から出てしまう「サンキュー」に、むすっと、「ノー・サンキュー」と言い返され、を繰り返した。「ありがとう」問題は徐々にゲームと化してきた。私が「ありがとう」を口に出してしまうと、ティントゥンが勝ち誇ったように、左の口の端をぴくっと持ち上げてニヤリと笑うのである。言ってしまったら私の負けなのだ。そんな遊びながらの「ありがとうを言わないごっこ」だったけれど、この「ありがとうを言わない」ということが結構苦痛であることに徐々に気がつきはじめるのだ。
 ティントゥンはどういうつもりなのか彼の主義なのだろうが、食事を一緒にしても決して客に財布を開けさせなかった。そんな契約は全くしていないのにである。細かいお金には執着のないように見え、豪勢に注文するので食費はそこそこ高くつくことも多く、これじゃあ私の払っている一日の観光費用と差引ゼロだと思えることも少なくなかった。
 そんなとき、私が出すよと言っても払わせてもらえず、そのうえ「ありがとう」と言わせてもらえないのである。口から飛び出しそうになる「ありがとう」をこらえるとき、肝っ玉の小さい私は、大げさに言うと、借りがどんどんたまっていく苦しさみたいなものを、ひそかに感じ始めていた。
「ありがとう」を言わない国 〜 の三
 人に手を貸すことが日常であり、また貸されることも日常であり、ものがあればお隣りさんにも分けるしその逆もごく当たり前で、他人に何かをしてあげることに「よいしょっ」というエネルギーを必要としない社会には、いくつもの「ありがとう」は必要がないように見えた。ミャンマーも「ありがとう」の非常に少ない国だった。その象徴のようにこの国の僧侶と一般人の関係があった。僧侶は「もの」だけに絞っていえば、いつももらう立場である。経済優先社会で言う「生産」の役割を一切担わない僧侶たちは、食べていく糧を日々、働く一般人たちから提供される。しかし決して礼を言ったり頭を下げたりしない。我々通りすがりの旅人にとっては非常に不思議な光景である。
 日本では波風を立てないために「ありがとう」は大変役に立つ。しかし「ありがとう」と言うとき、そこには相手との間に引っ張った一本の線が確実にある。もっといえば「ありがとう」は、相手のしてくれたことを借りとして、差し引き勘定の中で自分の負担を軽減するための一言であるとも言える。
 マンダレーからパガンへ異動する日、ティントゥンは早朝まだ暗いうちに私を迎えに来て、私に朝食を食べさせ、バス停まで送ってくれた。この日にはその代金も受け取らず、逆に私の見たことのない、小さな、白く粉を噴いたような緑の花束をくれた。まるで草のような外観からは想像もつかない、優しく、みずみずしい甘い香りがいっぱいに広がった。
「ビルマの花だ。ダンナッパンていうんだ。ドライフラワーにすればずっと香りがいい。」大きな葉っぱを三角に折り畳んで作った天然の包装紙にくるみなおして手渡してくれた。小さな粋な贈り物だった。「…ありがとう…」このときだけは口もとをにやりと曲げることなく、ティントゥンは首を縦に振った。
 ミャンマーの国は、「ありがとう」を必要としない許容力のある国だった。人々は持っている限りのものを人に与えることのできる大きな、こだわりない心を持っていた。それは逆から見ると、いつか自分が無一文になったときにも、世間から完全に見捨てられ、放り出されることはないという、社会の許容力に裏打ちされ育てられた人格なのかもしれない。「ずるがしこく」ならなくても安心して生きられる社会に見えた。そして、互いにフォローしあって回っている社会の中に突然入ってきたまったくの他人である通りすがりの旅人に対しても、彼らは同じ習慣でもって相対してきた。与え得るすべてのものを与え、そして「ありがとう」を拒否した。聞けばイスラムの社会でも、与えた側が幸せであり、与えた側が礼まで言うという。旅するうちに、「ありがとう」をベースに動いている私たちの社会の方が特異なのではないかと思えてきた。

文:
ホーム次ページ