ビルマを選んだ元日本兵
 

北村作之蒸さん、七七歳。ヤンゴン在中。

「戦争に負けたことが恥ずかしくて、日本に帰らなかったのです」
そう語った後、沈黙が訪れた。彼の目は遠くを見つめている。外では子供たちの遊ぶ声がしていた。

北村さんは大正八年七月四日、新潟県新井市で生まれる。一九三九年、二十歳の時に陸軍に召集される。ラバウル、ガナルカナル、マニラと転戦し、一九四四年一月一二日にタイから陸路でビルマ南部のモールメインに入る。 彼は二八軍第二(勇)師団の重砲隊に所属し、北東部の中国国境付近で中国蒋介石軍と戦った。しかし、戦況は不利で退却となる。戦いでは補給が乏しく、食料も村での現地調達が多かったという。

「村の人からは食料を分けてもらうなどして親切にされました」
と彼は語る。上座部仏教がこの国の文化を形作っていると言ってもいいここビルマの人たちの多くは、戦争を憎んでも人を憎むといういうことをしなかった。それに、同じ東洋人で仏教徒であるということで、特別に日本人に好意を持っている人たちがいることも事実だ。

終戦後、ヤンゴン北方にあるペグー近くの捕虜収容所に収容された。そこで草刈りや爆弾跡の穴埋めなどの仕事をしながらも、「戦争に負けた」という事実が彼の心に大きくのしかかっていた。収容所生活の後日本に帰るということが、彼には恥ずかしくて耐えられなかったのだ。そしてある日決心し、そこを脱走した。一生ビルマで暮らそう。そうした覚悟であった。

「脱走した後、たくさんのビルマ人から助けられました。農家で二週間、お寺では二年間かくまってもらいました」
その後、ビルマ国軍に入隊する。しかし、ビルマ国籍を持っていなかったため、知り合いの高級将校の助けで国籍を偽って入った。ビルマ国軍では野戦砲隊に所属した。一九五九年にはビルマ国籍を取得するが、同時に日本国籍を失う。一九五〇年にはヤンゴンでマテンジーさんと出会い結婚する。彼が三三歳、彼女が二〇歳だった。

軍隊生活も一九七三年に終わりを迎える。翌年からヤンゴンで生活が始まった。一九八七年からは彼と同じような境遇であった星一男さんが隣人となる。そして、一生もう日本には帰ることがないと思っていた彼だったが、一九八五年に四六年ぶりの日本を見ることになった。
「日本は全てが変わっていましたが、故郷の山は昔とおなじでした」
子供の頃いつも見ていた山だけはそのまま彼を迎えてくれた。

今は、ヤンゴンの郊外で生活をしている。奥さんと娘さん夫妻、そして孫三人の家族である。隣に住んでいた星さんは一九九四年の九月に亡くなってしまった。一度失った日本国籍も同じ頃再取得した。

今では日本語よりもビルマ語の方が得意だという。
「日本に帰って生活をしたいですか」
と、躊躇しながら聞いた私に、
「ビルマで一生過ごしたいです」
と答えた北村さん。彼の家を後にし、もう一度振り返ると、そこには自分自身の人生を歩んできた普通の日本人そしてミャンマー人の姿があった。

*北村さんは、2000年ヤンゴンにて永眠されました。

文・写真 後藤修身 (1995年)

ホーム