• 先日友人に誘われ、インド人街にある南インド料理の店に行ってみた。ダウンタウンにある29番通りの下ブロック(マハーバンドゥーラ通りとストランド通りの間)だ。地元の人はチッティータミンザインと言っていた。チッティー食堂だ。ヤンゴンでは、南インドのタミル人をチッティーということが多い。3階に上がっていくと、ヤンゴンではごく一般的な庶民的な食堂で、ビルマ族っぽい兄ちゃんが給仕をしていた。

    「何にする?」とウェイターの兄ちゃんから聞かれ、私はヤギ、友人は鶏をたのんだ。まず出てきたのが大きなバナナの葉っぱ。水で濡れていたので、きれいに洗っているんだろう。表面はテカテカだ。そこに白ご飯がどさっと盛られ、スープに野菜カレーに肉カレーに漬物が次々に載せられていった。バナナなの葉っぱはでかいので、余裕で全部乗る。

    葉っぱのほうが食欲がわく

    葉っぱのほうが食欲がわく

    葉っぱだったらやっぱり手で食べるしかない。きれいに洗った手で口の中に放り込む。おお、うまい。さっぱりしているけど旨みがある。さすが南インドのカレーだ。ご飯をおかわりしてしまった。

    実は、私は手で食べるのは苦手だ。ミャンマーでは今でも田舎に行くと手で食べることが多い。手で食べるのは一見やさしそうだが、実際にはけっこう難しい。ぐずぐずしていると指先がふやけてくるし、ご飯が口元からパラパラと落ちる。食器の外まで落ちてしまうのだ。まるで、やっと一人で食べられるようになった3歳児がぼろぼろとご飯をこぼしながら食べているかのようだ。でも、このバナナのでかい葉っぱだとだいじょうぶだ。少々散らばってもみんな葉っぱの上だ。

  • 1年ちょっと前に行ってきたラトナギリの話が途中で切れたままだった。前回の話はここまで

    ロイヤルファミリーの消滅とその後

    この後、私が会ったPradeep氏の娘の写真を出すつもりだったが、本人に許可をもらったりしているうちにそのままになり、すっかり忘れてしまっていた。ところが来月、第4回ミャンマー辺境映像際で「ビルマ王朝の末裔をインドに探して」という演題で話をすることになった。ということで、今まとめている最中だ。我ながらちょっと情けないが、こういうことがないと手を付けなかっただろうから、いい機会だ。

    こちらが未公開になっていた現代の王女の写真。私がラトナギリに行ったときは彼女はゴアの大学にいて実際には会っていない。写真は父のPradeep氏が持っていたものをカメラで撮ったものだ。

    ティーボー王から5代目になるAnkita(写真はPradeep氏所有)

    知的なインド系美人の顔だ。彼女はPaya Gyi王女から4代目にあたるので、ビルマの王族の血が6%ほど入っていることになる。そう考えると本当の王女様に見えてくる。Pradeep氏にはもう一人子供がいる。今は15才になる王子だ。

    息子のArmuchi、今では15才になる(写真はPradeep氏所有)

    息子も賢そうな顔をしている。彼らにも一度会ってみたい。

  • 1885年、第三次英緬戦争で破れビルマ王朝は消滅しイギリスの植民地となった。ティーボー王とその家族は1886年、イギリスによりボンベイの南にあるラトナギリに追放された。ラトナギリに着いたのは、ティーボー王、王妃、王女たち3名(第4王女はまだ母親のお腹の中だった)、わずかな付き人たちだった。その時、長女であるパヤージー(Paya Gyi)王女(インドではファヤー王女と呼ばれている)はまだ3才だった。

    ティーボー王とスーパヤラッ王妃

    ティーボー王とスーパヤラッ王妃(元写真はPradeep Bhosale氏所有)

    4姉妹(元写真はPradeep氏所有)

    王女たち4姉妹(元写真はPradeep Bhosale氏所有)

    家族は丘の上に建つ2棟の古い家を借りることになった。マンダレーから持ってきた宝石などの財産を売りながらの生活という、マンダレー時代から比べるとつつましやかな暮らしだった。ラトナギリで大きくなったパヤージー王女は美人の誉れが高かった。その彼女が24才のとき、家族の馭者(門番だったという話もある)として働いていた地元の男ゴパル(Gopal)と恋に落ち、トゥトゥ(Tu Tu)という娘を産んだ。しかし、ゴパルは妻子ある男、正式な結婚はできなかった。

    パヤージー王女(元写真はPradeeb氏所有)

    パヤージー王女(元写真はPradeep Bhosale氏所有)

    1910年、ビルマ植民地政府の資金によって新しい王宮が建てられた。その王宮はティーボー王の意向で、ビルマのチーク材をふんだんに使ったビルマスタイルの王宮だった。この王宮も丘の上に位置し、アラビア海が見渡せた。ティーボー王が亡くなったのは1916年、57才だった。

    小さな家に24年間住んでいたが、この王宮へ家族で移った(今はミュージアムとなっている)

    小さな家に24年間住んだ後、この王宮へ移った(今はミュージアムとなっている)

    父を亡くした家族は1919年、33年ぶりにビルマに帰ることとなった。パヤージー王女は娘トゥトゥを連れていったが、夫ゴパルには必ずラトナギリに戻ってくると言ってビルマに向かった。その言葉の通り、彼女だけはトゥトゥを連れラトナギリに戻ってきた。しかし、ティーボー王は財産をほとんど残さずに死に、ゴパルも妻子を抱え、王女にはわずかな援助しかできなかった。村人たちが王女に時々援助をするという非常に貧しい生活だったという。1947年、ビルマ独立直後に王女は再びビルマに戻った。しかし、それは厳しいものだった。「ビルマの王女がヒンドゥー教徒のインド人との間に子どもをつくった。それも、平民で妻子ある男だ」というビルマ国民の非難の声で、またビルマを去らなければいけなかった。彼女が死んだのはラトナギリに戻った直後だった。

    トゥトゥは地元ラトナギリのドライバーと結婚し、5男2女をもうけた。すっかりビルマから忘れ去られインド人として生活していていたトゥトゥであったが、1961年、突然ビルマ政府から一時金をもらうことになった。トゥトゥに3,000ルピー、長女のプレミラ(Premila)に2,000ルピーである。当時としては相当な額だった。多くの子供たちや孫たちに囲まれトゥトゥは2000年10月に亡くなった。

    パヤージー王女の娘トゥトゥ(元写真はPradeeb氏所有)

    パヤージー王女の娘トゥトゥ(元写真はPradeep Bhosale氏所有)

    トゥトゥの長女プレミラとその夫(元写真はPradeeb氏所有)

    トゥトゥの長女プレミラとその夫(元写真はPradeep Bhosale氏所有)

    今、ラトナギリにはティーボー王の子孫がたくさん住んでいる。今回、最初に出会いいろいろとお世話になったのがプラディーブ氏、トゥトゥの長女プレミラの次男で、王女のひ孫にあたる。彼からいろいろと話を伺い、写真や資料を見せてもらった。プラディーブ氏は運送業を営み、インドでは中流階級といえる。娘はゴアの大学で勉強している。王女の話は次の世代へと伝えられるのだろう。

    プレミラの次男 Pradeeb Bhosle氏。今回の旅でいろいろとお世話になった

    プレミラの次男Pradeep Bhosale氏。今回の旅でいろいろとお世話になった

  • ティーボー王がよく海を眺めていたという場所が旧王宮の近くにある。地図には、Thiba Pointと書かれている(インドではティーボーのことをティーバと呼んでいる)。小高い丘の先端にあるので、河口、ラトナギリの町並み、そしてアラビア海が見渡せる。100年前、ビルマから追放されたティーボー王や王女たちは何を思ってこの景色を眺めていたのだろうか。今では地元の観光スポットとして、インド人の家族や恋人たちに人気の場所だ。子供たちのための遊具もあり、小っちゃな遊園地のようでもある。

    Thiba Point からの眺め

    Thiba Point からの眺め

    ここで一人で写真を撮っているといろんな人から声をかけられた。観光地だとやばいパターンだが、外国人ツーリストがほとんどいないラトナギリでは全く問題ない。外国人と接したことがないせいか、インド北方のモンゴロイド系インド人やネパール人と間違われることも多かった。ヒンディー語で「○×□*△」などと声をかけられても、まぬけな顔で「ナマスカール」ぐらいしか返事ができない私には訳が分からない。英語をしゃべる人は半分くらいだ。

    日暮れ後は地元民のための夕涼みの場所となる

    日暮れ後は地元民のための夕涼みの場所となる

    女子大生のグループからも声がかかった。その中に一人、いろいろ尋ねてくる子がいた。ラトナギリは好き?どんな国に行ったことがあるの?一人旅は寂しくない?などと矢継ぎ早の質問で、外の世界に興味津々の様子。私の十数年前のインド旅行のときにはほとんど出会わなかったタイプの子だ。インド人も変わってきているようだ。

  • インド 2009/12/10 2 Comments

    9日に帰ってきた。
    ラトナギリには6日間滞在、のんびりとしたところでいいところだった。今回の目的は、ビルマ最後の王、ティーボー王とその娘パヤージー王女の子孫と会うことだった。王女様捜しだと勇んでいったのだが、勇みすぎたのか今回会えたのは王子様ばかりだった。

    王子様といっても、50代、60代の見かけはインド人、元ロイヤルファミリーだという意識がほとんどない人もいた。それでも、普通のインド人と比べるとモンゴロイドの血が混じっているなという顔をしていた。

    ティーボー王がラトナギリで死んだ後、たった一人残された王女は地元インド人との間にできた娘トゥトゥをかかえ、村人から施しを受けていたという非常に貧しい生活だったという。トゥトゥはやはり地元のインド人の夫との間にできた息子6人、娘3人を残し2000年に亡くなった。今ではその子どもや孫がラトナギリやムンバイに数多く住んでいる。

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