METTA(ミィッター)とゴキブリ

ヤンゴン生活, 宗教

ミャンマー人の友人から仏教の本(PDF版)数冊がメールで送られてきた。1年近くミャンマーに住んでいるのに、私に信仰心のかけらも見えなかったからなんだろう。ビルマ語(ミャンマー語)の本を読めない私は、一番簡単そうな英語の本をGoogleの自動翻訳を利用して読むことにした。METTAの瞑想について書いた本だった。

友人が送ってきてくれたMETTAの本
友人が送ってきてくれたMETTAの本

 METTAは元々はパーリ語で、直訳すると「慈悲」だ。ビルマ語だとミィッターと発音する。上座部仏教の瞑想法というとウィパッサナーが有名だが、素人にはかなり難しい。でも、このMETTAはえらく簡単だった。「平和で幸せでありますように」という言葉を唱えるだけだ。別にパーリ語で唱える必要はない、自分の母国語(日本語)で十分らしい。ただし、自分だけが平和で幸せになればいいというわけじゃない。

私は平和で幸せでありますように。
尊敬する人が平和で幸せでありますように。
親しい人が平和で幸せでありますように。
知っている人が平和で幸せでありますように。
嫌いな人が平和で幸せでありますように。
私を嫌っている人が平和で幸せでありますように。
全ての生き物が平和で幸せでありますように。 

「全ての生き物」は漠然としすぎているので、唱えるだけだったら難しくはない。でも、「嫌いな人」「 私を嫌っている人」は難しい。あの人やこの人やらの顔が出てきた。その人達に「平和で幸せでありますように」なんてとても言えない。けど、始めたからにはMETTAを終わらせないと。

嘘でもいいやと、我慢して何度か心の中でつぶやいた。うん? ちょっと変。頭に浮かんだあの人の険しい顔がほんの少しやわらかくなった。言霊とはよくいったものだ。心がこもってなくても言葉に出すだけで人に影響するんだ。でも、今回の大きな問題はこの嫌いな人ではなかった。

翌日、トイレに入るとゴキブリが一匹、床の上でじっとしていた。いつものことなので、Made in Thailand のゴキジットを噴射しようとした。でも、噴射しない。あれ、どうして? 変だ。突然、「全ての生き物が平和で幸せでありますように」という昨夜の言葉が蘇ってきた。その影響で私の指先が止まってしまったのだ。それを振り払うように、えいっと一吹き。ゴキブリはトイレの角にあったレンガの裏に姿を消した。

今回使用したタイ製の殺虫剤
今回使用したタイ製の殺虫剤

また翌日、トイレに入るとひっくり返ったゴキブリが一匹いた。ピクリともしない。
「かわいそう・・・」
生まれて初めてゴキブリに対してこんな気持ちになった。「全ての生き物が平和で幸せでありますように」は、全然気持ちを入れずいい加減に唱えただけなのに、こんな気持ちになるなんて。恐ろしやMETTA。

 その日、ミャンマー人とゴキブリの関係をヒヤリングすることにした。4人のミャンマー人(女性3名、男性1名)に、「もしゴキブリに出会ったらどうする?」と聞いてみた。女性は3人とも殺さないと言った。まず、家に入ってこないように工夫をする。入ってきたら、生きたまま外に逃がすという。男性一人は違った。

 「殺虫剤でやっつければいい。中国製じゃなく、タイの殺虫剤がいいな」と彼は聞いてもないのに殺虫剤の種類まで答えた。でも私からの一言、「METTAって知ってる?」は効果抜群だった。彼の目が宙を舞った。比喩ではなく、本当に宙を舞っていた。あんなにオロオロしている人を見るのは初めてだった。どもりながら、「さっ殺虫剤をかけすぎると死ぬから、ちょっちょっとだけ」最初の主張とは違い、生きたまま外に逃がすんだと力説した。

 あとで日本語の達者なミャンマー人の友人にMETTAについて聞いてみた。実際のMETTAはもっと大変だった。「平和で幸せでありますように」だけではなく、全部で4フレーズある。それに、東西南北(北東や南西などを含めて)で全8方向、上下に2方向で全部で10方向に向かって唱える。全部やると30~40分くらいかかるらしい。友人曰く、高校生のときに毎日真面目にMETTAをやっていた(ビルマ語だと、ミィッターを送るという)ので、心が穏やかで毎日が幸せだったという。

 私はまだその境地まで遥かに遠いが、ゴキブリにはほんの少し憐れみも感じるようになった。そのおかげなのか、最近ゴキブリとの出会いが増えた。今はまだそのたびに葛藤し動揺している。いつの日かゴキブリにも静かな心で接することができるようになるんだろうか。